コラム:英ポンドは通貨安競争の勝ち組なのか=唐鎌大輔氏

コラム:英ポンドは通貨安競争の勝ち組なのか=唐鎌大輔氏
 10月25日、みずほ銀行のチーフマーケット・エコノミスト、唐鎌大輔氏は、通貨安競争ではポンドは「勝ち組」だが、英経済はポンド安が物価上昇に浸透しきった頃に試練を迎える可能性があると分析。提供写真(2016年 ロイター)
唐鎌大輔 みずほ銀行 チーフマーケット・エコノミスト
[東京 25日] - 10月に入ってからの為替相場のテーマは、ひとえに英ポンドの急落に尽きる。アジア時間の7日朝方には数分で米ドルに対して6%余り下落する、いわゆるフラッシュクラッシュ(瞬時の急落)に見舞われ、一時約31年ぶりの安値をつけた。
しかも、すでに6月23日の英国民投票における欧州連合(EU)離脱(ブレグジット)選択を受けて歴史的安値まで落ち込んでいた状態からの急落であり、今年のポンド相場は2段階の大幅切り下げを経験したような格好となっている。足元では対ドルで1.22ドル台と、7日につけた1.18ドルから値を戻しているものの、歴史的安値圏であることには変わりない。
現状、ポンドの急落は、英国の落日と重ね合わせた自然な動きとして、どちらかと言えば「同情的な目線」が多いかもしれない。後述するように、ブレグジット後の英国を待ち受けている未来は明るいものとは思えず、通商上の甚大な不利益を背景に経済が停滞する可能性は拭えない。「とりあえず不安だから」という思いの下でポンドを手放す向きは多いと見受けられ、実際それは理にかなったリアクションと言える。
<ゴールデンウェンズデー再現の可能性>
だが、デフレ懸念がグローバルスタンダードとなった今、通貨安は各国が希求するものでこそあれ、忌避すべきものではなくなっている。例えば、日銀や欧州中央銀行(ECB)がここ数年、通貨安をてこにインフレ期待を押し上げ、ディスインフレ状況の打破(日本の場合はデフレ脱却)を図ろうとしていることは周知の通りである。
この点、ポンド急落を受けた英国の物価動向は堅調な推移が見通されており、2017年末にはプラス4%に到達するとの見方も目にする。もちろん、通貨安・輸入物価経由の物価上昇が消費・投資意欲を刺激できなければ、実質購買力を毀損(きそん)するだけであり、前向きな話にはならない。
とはいえ、中央銀行が「デフレの粘着性」に対し強い恐怖感を抱いているのも事実であり、インフレ期待を下支えるという大義の下、なりふり構わず通貨安を希求する向きは今後も後を絶たないと思われる。各国政策当局から悲観視されるブレグジットを経て、英国が通貨安をてこにインフレを実現するのだとすれば、皮肉な話だ。
なお、10月以降のポンド急落の最中、イングランド銀行(英中銀、BOE)のキング元総裁が英メディアに対して、「住宅価格や為替レートの下落などは過去3年間、BOEが実現しようとしてきたことであり、今やそれが手に届きそうな状況だ」といった趣旨の発言をしている。ブレグジットで起きている市況変動は望んでいたものであり、それらを危険視する向きに対し、「寝ぼけたことを言うな(dream on)」といった胸中を吐露している。通貨安を介して経済の復調を図ろうという気持ちがはっきり表れている。
また、筆者はその可能性は低いと考えるが、ポンド安を背景に英国の実体経済がうまく回るようなことがあれば、触発される他のEU加盟国が現れる可能性もあり、欧州委員会を筆頭とするEU政策当局にとってはリスクとなる。
欧州為替相場メカニズム(ERM)危機として知られる1992年9月16日のブラックウェンズデーは、その後、通貨安を背景に英経済が回復したため、ゴールデンウェンズデーと呼ぶ声もある。現在、世界の通貨安競争を出し抜いたポンドがゴールデンウェンズデー再現に至るのかどうかは1つの注目点ではある。
<ポンド安の割を食った円>
以上のような認識に立つと、ブレグジット騒動に伴うポンド急落が、結果的に各国間の通貨安競争に火を付けてしまうリスクはないのかという不安は生じる。この点、今回のポンド急落の裏でどの通貨が最も買われたのかは気になるところだ。言い換えれば、ブレグジット騒動を受けて、世界の通貨高の案分を最も引き受けさせられたのはどの通貨だったのか。
ポンドの実効相場を計算する際、最もウエイトが大きいのはユーロ(61.5%)であり、ドル(15.0%)、円(4.9%)が続く。2016年1―8月の期間、ポンドの名目実効相場は約12%下落したが、通貨別の動きに分けて見ると対ユーロでは約15%(寄与度マイナス9.2%ポイント)、対ドルでは約12%(同1.8%ポイント)、対円では約31%(同1.5%ポイント)の下落だった(各通貨の変化率は2015年12月31日から16年8月31日で計測)。
円のウエイトはドルの3分の1しかないが、ポンドの名目実効相場全体に与える影響(寄与度)はドルとおおむね等しかった。それだけ対ポンドでの円の買われ方が急激だったことを意味しており、今回のブレグジット騒動の中でかなり割を食わされた感はある。
一方、対ユーロでのポンドの下落率(15%)は主要10通貨の中でも比較的小さい方であり、下から数えて4番目(スウェーデンクローナ、ドル、スイスフランの次)だ。ブレグジットはユーロ圏にもリスクであるため、ポンドを対ユーロで売り進めるという動きは限定されたのかもしれない。
なお、筆者は2017年にかけて米連邦準備理事会(FRB)のハト派色が強まり、ドル相場は下落すると考えている。通常、そうした状況ではどの主要通貨も強含みが不可避と思われるが、恐らくポンドはブレグジットという特異な理由で上昇圧力を回避する可能性が高い。だが、為替相場がゼロサムゲームである以上、その分の通貨高圧力は誰かが引き受けることになり、代表的には円やユーロという話になる(経験則に倣えば円が割を食う可能性が高そうだ)。
そうした相場動向を不服と捉えるのか、それとも不可抗力の調整として受け入れるのかによって、通貨安競争の行く末は変わってくる。とはいえ、前者の道を取り、各種政策対応で抗おうとしてもポンドのように一方的な低め誘導を図るのは難しいというのが歴史的な経験則になろう。ブレグジットを材料として抱えたポンド相場は特例であり、その他主要通貨は最終的には基軸通貨の意向(ドル安)に沿った展開を想定するのが無難である。
<ポンド安をうらやむ必要なし>
だが、ポンド安をうらやむ論調が支持を得て通貨安競争が刺激されるにしても、それはあくまで短期的なものだろう。
確かに、「通貨を下げた者勝ち」という通貨安競争の尺度に照らせばポンドは「勝ち組」であり、「物価を上げる」という各国中銀が悪戦苦闘する命題も難なくクリアするかもしれないが、世界経済の成長が緩やかなものになっている今日、通貨安で取り込める需要は限定的なものである公算が大きい。結局は物価上昇によって国内経済主体の購買力が著しく奪われ、景気停滞につながる可能性が高いのではないか。
また、そうした結果はEU離脱派が唱えてきた「EUを離脱すれば移民も遮断でき、EUへ予算を拠出する必要もなくなるから豊かになる」といった主張とはだいぶ異なる話である。とすれば、ポンド急落は最終的に大きな政治問題として現政権を襲うのではないか。
ポンド安をうらやむような論調が見られるうちは、まだブレグジットの副作用に蝕(むしば)まれる以前の初期段階と考えられ、本当の苦しみはポンド安が国内物価上昇に浸透しきった頃に表れるはずである。物価上昇はあくまで景気回復の結果でしかなく、決して原因ではないことを今後の英国経済は証明するだろう。
*唐鎌大輔氏は、みずほ銀行国際為替部のチーフマーケット・エコノミスト。日本貿易振興機構(ジェトロ)入構後、日本経済研究センター、ベルギーの欧州委員会経済金融総局への出向を経て、2008年10月より、みずほコーポレート銀行(現みずほ銀行)。欧州委員会出向時には、日本人唯一のエコノミストとしてEU経済見通しの作成などに携わった。2012年J-money第22回東京外国為替市場調査ファンダメンタルズ分析部門では1位、13年は2位。著書に「欧州リスク:日本化・円化・日銀化」(東洋経済新報社、2014年7月)
*本稿は、ロイター日本語ニュースサイトの外国為替フォーラムに掲載されたものです。(here)
(編集:麻生祐司)
*本稿は、筆者の個人的見解に基づいています。
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