視点:動き出すマネー、景気好循環まであと一歩=伊藤元重氏

視点:動き出すマネー、景気好循環まであと一歩=伊藤元重氏
 1月6日、伊藤元重・東京大学教授は、2016年は実質マイナス金利のもと、経済好循環の歯車が回り始めるターニングポイントの年になりそうだと指摘。写真は2014年5月、都内で撮影(2016年 ロイター/Toru Hanai)
伊藤元重 東京大学教授
[東京 6日] - 過去最高の企業収益が賃上げや投資増になかなか結びつかず、デフレマインド転換の難しさを指摘する声は多いが、伊藤元重・東京大学大学院教授は、2016年は実質マイナス金利のもと、経済好循環の歯車が回り始めるターニングポイントの年になりそうだと指摘する。
同氏の見解は以下の通り。
<賃上げに弾みがつくタイミングは近い>
日本経済は現在、デフレ脱却の第2ステージにいる。第1ステージでは、3本の矢のうち特に第1の矢(金融政策)によって株価・為替・雇用・税収・企業収益が大きく改善した。だが、肝心の投資や消費が経済の好循環を促すまでには至らず、国内総生産(GDP)も伸び悩んでいる。これが、日本経済の本格的回復に対する懐疑の念、あるいはある種の閉塞感につながっている。
2016年のマクロ経済運営は、まさにこの問題を解決していくことが求められる。デフレ脱却を確実なものとし、かつ17年4月に控える消費再増税という課題をこなし、好調な企業収益を賃金や投資の拡大に結びつけていくことが肝要だ。
足元で投資や消費が思いのほか鈍い状況は、別に落胆すべきことではない。やはり20年におよぶデフレの中で企業や国民のマインドも相当冷え切ってしまっている。上場企業の過去最高益や大企業のベア上昇といったニュースを聞いても、景気回復の実感を持てない人は多いだろう。企業経営者も、いくら収益が良くなったからといって、5年後、10年後を見通したときに、積極的に国内で投資を増やす気持ちにはなかなかなれないだろう。
ただ、経済というものが不思議なのは、金融・財政政策による需要喚起策でここまで温めると、まるで五右衛門風呂のように、深層部分に熱がじわじわと届き始めていることだ。
まず、賃金・雇用に関して言えば、11月の有効求人倍率(季節調整値)は1.25倍とバブル期並みの高さになっている。賃金の伸び率は、全体としてはまだ低いが、中小企業や非正規雇用など市場にセンシティブなところは相応に上がり始めている。
こうしたなか、政府が官民対話で経済界に賃上げをお願いしているのは理にかなっている。安倍政権が掲げる名目GDP600兆円(実質2%、名目3%程度の成長)を目指すと、賃金が上昇しなければ労働分配率がどんどん下がっていってしまう。
そもそもデフレマインドが定着している日本では、企業の賃金や投資決定について最適配分ができていない「コーディネーションの失敗」が起きている可能性がある。政府がコーディネーター役を買って出て、経済界に対して民間主導の好循環の必要性を説くのは決して間違ったことではない。合わせて、そうした好循環が生まれるよう政策面で後押しをしてあげることが肝要だ。法人実効税率の引き下げも効果的な選択肢である。
ちなみに、私は賃金上昇の可能性に関して多少楽観的で、これから足元の名目賃金はかなり上がってくると考えている。横軸に失業率、縦軸に賃金上昇率をとったフィリップス曲線では、あるレンジを超えて失業率が下がってくると、賃金上昇に弾みがかかる。2016年あたりが、このターニングポイントになりそうだと見ている。
<労働力不足と生産性革命が促す産業の新陳代謝>
投資についても、2016年はいよいよ期待が持てると考えている。最大の根拠は、16年の比較的早い時期から物価上昇が加速し、名目金利から物価上昇分を差し引いた実質金利のマイナス幅が広がると思われるからだ。
1バレルあたり100ドル超から40ドル割れまでわずか1年程度で急速に原油安が進んだにもかかわらず、日本の消費者物価指数はほぼゼロ近傍で推移している。つまり、足元では金融政策が相当効いており、物価は上昇基調に傾いていると言える。
今後、原油価格下落の影響は剥落してくるので、物価には上昇圧力がかかる。16年に1.5%程度まで上がれば、実質金利は大きくマイナスの領域に踏み出す。手元資金を現金・預金のまま寝かしておけば価値が目減りするので、企業には当然、手元資金の有効活用を求める市場のプレッシャーが強まるだろう。
むろん、配当金・自社株買いなどの株主還元、合併・買収(M&A)、あるいは賃上げなどキャッシュアウトのルートは様々だが、老朽設備の更新投資も含めて、デフレ下で抑え込まれていた国内設備投資が大きく動き出す可能性はある。
そもそも日本の労働供給量は毎年、少子高齢化で1%ずつくらい縮小していく。生産性を高めるための投資は、企業の生き残りに欠かせない。加えて、人手不足などで賃金が毎年上がっていくとすれば、必要な生産性向上余地はさらに大きくなる。その過程では企業の淘汰も進むかもしれないが、言い換えれば産業の新陳代謝が促進されるということだ。バブル崩壊後ずっと低い水準で推移してきた全要素生産性(TFP)の上昇、そして潜在成長率の上昇につながるかもしれない。
生産性を大幅に引き上げるような革新的な技術は、そこかしこに芽を吹き始めている。モノのインターネット(IoT)や人工知能(AI)、フィンテック(金融とITの融合)、あるいはシェアリングエコノミーの発想を生かす手もある。新たな生産性革命の波に乗り遅れないよう、日本企業の経営者には危機感をもって臨んでもらいたい。
また、実質マイナス金利が、約1700兆円(ほぼ半分が現金・預金)の個人金融資産にどのような影響を与えるのかも注目されるポイントだ。
最近、米国の投資家と話をした際、アベノミクスの最大の負け組は結局、日本の国民ではないかと言っていた。インフレになっても、現預金に寝かしたままで価値が目減りするというわけだ。私はそうは思わないと答えた。目に見えるように物価が上がってくれば、現預金から株式などへの相応のポートフォリオシフトは起こるはずだ。
なお、最後に日本経済の長期的展望を言い添えれば、15年に大筋合意した環太平洋連携協定(TPP)など巨大自由貿易協定(FTA)が始動し、アジア市場が成長とともにさらに開放されていけば、日本の輸出産業の主役も様変わりしていくのではないだろうか。
国内輸出産業の主役は現在、デバイスや素材・鉄鋼、あるいは自動車などだが、おそらくここに食品や衣料品などさまざまな消費財が加わってくると思われる。
また、観光産業のポテンシャルも侮れない。隣国の中国だけで欧州連合(EU)全体の2倍を超える人口が存在するのだから、海外の観光先進国の実績を参考に考えれば、年間訪日外客数の中長期目標は4000万人でも少ないくらいだろう。
財やサービスの分野で、それだけの規模の相互交流が起これば、日本の産業構造もおのずと大きく変貌する。その意味で、TPPや観光政策は20年後、30年後の日本経済を想定した重要なアジェンダとして、一過性ではなく、腰を据えて取り組まなければならない。
*本稿は、伊藤元重氏へのインタビューをもとに、同氏の個人的見解に基づいて書かれています。
*伊藤元重氏は、東京大学大学院経済学研究科教授。現在、経済財政諮問会議の民間議員を務める。東京大学経済学部卒、米ロチェスター大学大学院経済学博士。
*本稿は、ロイター日本語ニュースサイトの特集「2016年の視点」に掲載されたものです。
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