河越館 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

館ではなく陣である可能性

 前回(11月12日掲載)の「館は本当に館なのか?」で、立川市所在の伝立川氏館や国立市の谷保城(三田氏館)は、領主の館などではなく、実際は室町後期〜戦国初期の陣であろう、という話を書いた。筆者がそのように考える根拠は前稿に示したとおりだが、実は同じような例は他にもある。あるどころか、枚挙に暇がないのだ。

 今回は、そうした「問題な館」の中から、埼玉県川越市所在の河越館を紹介しよう。河越館は、入間川の西岸にあたる川越市上戸にあって、中世河越氏の館跡と伝わっている。

河越館跡に残る土塁。右手遠方に常楽寺が見える

 河越氏は、平安時代末期に武蔵で勢力を張った桓武平氏秩父氏流の一族で、畠山氏や江戸・葛西氏などと同族だ。鎌倉幕府では武蔵の有力御家人として栄えたものの、南北朝動乱の渦中で没落してしまった。

 現在、河越館跡にある常楽寺は、河越氏の館にあった持仏堂が前身で、河越氏が没落したのち、単独の寺として残ったものと伝わる。館跡とされる地には、西側と北側に土塁が残っており、かつては常楽寺境内を含み込んで南北200メートル、東西250メートル以上の範囲に及んでいた、とされている。

西側から見た常楽寺。河越氏の屋敷にあった持仏堂から発展したものと伝わる

 実は、この場所に平安時代末期から鎌倉・南北朝時代まで、有力な在地領主(要するに武士)の本拠が営まれていたことは、発掘調査によって確認されている。建物や井戸の跡、各種の生活用品などが見つかり、年代的にも河越氏が栄えた時代と符合するのだ。

河越館の主要部は発掘調査に基づいて史跡公園として整備されている

 と、書いてくると「何だ、やっぱり河越氏の館でいいじゃん!」となりそうなのだが、事はそう単純ではない。まず発掘調査で判明したところでは、平安末〜南北朝期の屋敷を囲んでいたのはごく小さな溝でしかない。溝の内側には塀か垣根があったようだが、これでは区画と排水くらいの役目しか果たさず、防禦の役には立ちそうもない。

発掘調査で見つかった河越氏時代の溝。堀とは呼べないサイズである

 さらに発掘調査では、室町後期〜戦国時代にかけての堀や建物の跡も多数、見つかった。堀は3メートル以上の幅をもち、複雑に屈曲しながらいくつもの区画(曲輪)を形成している。河越氏の館が南北朝期にいったん廃絶した後、改めて城のような施設が築き直されたことになる。現在残っている土塁も河越氏時代のものではなく、室町後期〜戦国期に築かれたものなのである。

発掘調査で見つかった室町後期〜戦国期の堀跡が舗装として表示されている。屈曲して複雑な縄張を構成している様子がわかる

 一方、関東地方の戦乱について記された各種の史料には、「上戸の陣」というものが出てくる。室町後期以降に起きた戦乱の中でしばしば使用された「上戸の陣」は、河越館の場所を指すものと見て間違いないだろう。さらに、江戸時代に編まれた『新編武蔵風土記稿』には、この場所こそ、天文15年(1546)に起きた河越夜戦の古戦場だ、という意味の記述もある。

 川越市上戸の「河越館」と呼ばれる場所に、中世河越氏の本拠があったことは間違いない。しかし、南北朝時代に河越氏が没落すると屋敷も廃墟となり、常楽寺だけが残った。 

常楽寺には河越氏の供養塔が建てられている

 やがて室町時代後期以降の戦乱の中で、この場所に陣が営まれるようになった。上戸の地は武蔵の要衝である河越の地に近く、入間川の水運も利用できるからだ。この「上戸の陣」は、天文15年の河越夜戦まで断続的に利用されたことだろう……というのが、論理的に導き出されるストーリーである。

 静岡県の駿府城の場所に、今川氏時代の駿府館があったことは間違いないが、その場所を「今川館」「駿府館(近世には駿府城としても利用された)」とは表記しない呼ばないように、「河越館」の場合も、本当は「上戸城」とか「上戸陣」と呼び、カッコ書きで「(前身は中世河越氏の屋敷)」とするのが、論理的には正しいはずである。

 ちなみに、城好きの人たちは概して「館」に興味を示さない傾向があるようだ。本当は戦国時代の平城であるのに、史跡の登録名称が「館」であるために、城好きの人たちが興味を示さないのだとしたら、惜しいことである。

[参考図書]河越夜戦について詳しく知りたい方は、拙著『東国武将たちの戦国史』(河出文庫)をご一読下さい。戦略と人物から関東の戦国史を読み解いた一冊です。