間島弟彦
間島 弟彦(まじま おとひこ[1][2]/つぎひこ[3][4]、1871年8月22日(明治4年7月7日) - 1928年(昭和3年)3月21日[注釈 1])は、日本の銀行家、歌人。画号は圭魚。
来歴
[編集]1871年8月22日、旧尾張藩士である間島冬道・由伎子の7男として浦和県に生まれる[7][8]。
1878年11月、学習院の普通学校課程に入学する[9]。1886年1月13日付で退学し、4月に東京英和学校(現・青山学院)予備学科の3年に転入学する[10]。1888年に予備学科を卒業し、高等普通学部に入学する[11]。1890年3月に卒業する[11]。
1891年、アメリカ合衆国ミシガン州のアルビオン大学(英語: Albion College)に留学する[12]。母の病気の報せを受けて2年ほどで帰国する[13][注釈 2]。1894年、第十五国立銀行に就職する[13]。1896年2月11日、加納愛子と結婚する[14]。1898年、米山梅吉の誘いで三井銀行に転職する[15]。1902年から2年間、欧米各地を視察し、『三井銀行欧米出張員報告書』をまとめる[16]。1907年に横浜市店長となり、神戸市店長、大阪市店長を経て、1918年に取締役となる[17]。同年12月6日、青山学院校友会の会長に就任する[17]。1922年に校友会会長を、1923年に三井銀行を病気のため辞する[18]。1924年、青山学院の理事となる[19]。
1928年3月21日、死去、享年57歳[20][21]。7月8日、青山墓地においてキリスト教式による埋葬式と青山学院高等学部講堂で追悼会が行われる[22]。
間島記念館
[編集]1923年9月1日の関東大震災によって図書館を始めとする青山学院の各校舎が甚大な被害を受け、校舎の再建に伴い、教職員や学徒・校友から図書館設立の声が上がった[23][24]。病床に伏していた間島弟彦は、見舞いに来た青山学院長・石坂正信からこのことを聞き、建設費の寄付を申し出た[23]。間島弟彦の死後、その遺言に基づき、1928年12月4日で愛子夫人から寄付金10万円が送られた[7][25]。理事会は、14万円の予算で図書館建築の議を決定し[注釈 3]、校友である清水釘吉が社長を務める清水組が設計・工事を請け負うこととなった[7][27]。1929年2月に起工、10月に竣工し、「青山学院間島記念図書館」と名付けて、10月17日に落成式が行われた[7][28]。
幾度か拡張、改修工事が行われ、館内外に変化が現れたが、1976年の大増築の際に新築当時の姿をほぼ再現し、「青山学院間島記念館」に名称を改めた[29]。
2008年3月21日、「青山学院ベリーホール」とともに国登録有形文化財(建造物)に登録された[30][31]。
その他
[編集]- 関東大震災で倒壊した鎌倉市扇ガ谷の英勝寺山門の部材を引き取り、鎌倉の庭内に再建した[32]。その後、再び英勝寺に移され[33]、2013年8月7日に国宝・重要文化財(建造物)に指定された[34]。
- 没後、愛子夫人により間島弟彦名義で寄付が行われ、1936年10月1日、御成小学校敷地内に「鎌倉図書館」(現・鎌倉市図書館)が建設され、同小学校内には間島を顕彰する記念碑が立てられている[35][36][37]。他に、鎌倉第一小学校、鎌倉第二小学校、鎌倉高等女学校などの教育施設に間島弟彦名義で寄付がされている[38]。
- 2018年11月6日から12月22日にかけて、間島記念館にて特別展示「青山学院を支えたサーバント・リーダー ~米山梅吉・はる、間島弟彦、万代順四郎~」が開催された[39][40]。
著作
[編集]著書
[編集]- 『三井銀行欧米出張員報告書』石川由郎、1907年3月6日。 NCID BA48572277。全国書誌番号:40032971。
編集
[編集]- 間島冬道『冬道翁歌集』 上、間島弟彦、1910年9月30日。 NCID BA32189680。全国書誌番号:54012368。
- 間島冬道『冬道翁歌集』 下、間島弟彦、1910年9月30日。 NCID BA32189680。全国書誌番号:54012368。
- 間島冬道『間島冬道翁全集』 上、間島弟彦、1919年11月30日。 NCID BN12920045。全国書誌番号:43021092。
- 間島冬道『間島冬道翁全集』 下、間島弟彦、1919年11月30日。 NCID BN12920045。全国書誌番号:43021092。
著作集
[編集]- 『間島弟彦集』 上、間島愛、1929年3月21日。 NCID BN06283752。全国書誌番号:44040121。
- 『間島弟彦集』 下、間島愛、1929年3月21日。 NCID BN06283752。全国書誌番号:44040120。
参考文献
[編集]- 比屋根安定 著「間島記念図書館史」、青山学院五十年史編纂委員会 編『青山学院五十年史』青山学院、1932年11月3日、280-284頁。 NCID BN06376332。全国書誌番号:46076175。
- 『青山学院九十年史』青山学院、1965年9月20日。 NCID BN03264988。全国書誌番号:65009680。
- 青山学院資料センター 編『小伝 間島弟彦』青山学院、1977年11月16日。 NCID BN14191139。全国書誌番号:78005125。
- 気賀健生「間島弟彦 間島記念図書館に名をとどめる校友」『青山学院の歴史を支えた人々』青山学院、2014年11月16日、57-62頁。 NCID BB17281776。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 一部で3月24日とする資料があるが、『青山学院五十年史』に誤植があったことが原因とされる[5][6]。
- ^ 母・由伎子は1893年4月13日に亡くなる[13]。
- ^ 差額の4万円は、愛子夫人が土地邸宅を売却した金と、校友である清水釘吉の寄付金により賄われた[7][26]。
出典
[編集]- ^ 気賀 2014, p. 57.
- ^ “青山学院大学礼拝週報 No.29,30合併号” (PDF). 青山学院大学. 2021年4月28日閲覧。
- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『間島弟彦』 - コトバンク
- ^ 20世紀日本人名事典『間島 弟彦』 - コトバンク
- ^ 比屋根 1932, p. 281.
- ^ 小伝 1977, p. 83.
- ^ a b c d e 九十年史 1965, p. 432.
- ^ 小伝 1977, p. 1.
- ^ 小伝 1977, p. 7.
- ^ 小伝 1977, p. 8.
- ^ a b 小伝 1977, p. 9.
- ^ 小伝 1977, p. 13.
- ^ a b c 小伝 1977, p. 15.
- ^ 小伝 1977, p. 33.
- ^ 小伝 1977, p. 16.
- ^ 小伝 1977, p. 17.
- ^ a b 小伝 1977, p. 19.
- ^ 小伝 1977, pp. 19–20.
- ^ 小伝 1977, p. 22.
- ^ 小伝 1977, p. 38.
- ^ 「間島弟彦氏逝く」『朝日新聞』1928年3月22日、2面。
- ^ 小伝 1977, p. 41.
- ^ a b 九十年史 1965, p. 431.
- ^ 小伝 1977, pp. 59–60.
- ^ 小伝 1977, p. 64.
- ^ 小伝 1977, pp. 71–73.
- ^ 小伝 1977, p. 65.
- ^ 小伝 1977, pp. 66–68.
- ^ 小伝 1977, p. 75.
- ^ “青山学院の文化財建築物”. 青山学院. 2021年4月28日閲覧。
- ^ “青山学院間島記念館”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2021年4月28日閲覧。
- ^ 小伝 1977, p. 28.
- ^ “英勝寺山門復興事業呼びかけ”. e-ざ鎌倉・ITタウン. 2021年4月28日閲覧。
- ^ “英勝寺”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2021年4月28日閲覧。
- ^ 小伝 1977, p. 54.
- ^ 写真で見る図書館の歩み 明治44年図書館創立 - ウェイバックマシン(2014年3月10日アーカイブ分)
- ^ 「図書館、7月で100年 市民編集、記念誌発刊へ」『毎日新聞』2011年5月23日、21面。
- ^ 小伝 1977, p. 55.
- ^ “「青山学院を支えたサーバント・リーダー~米山梅吉・はる、間島弟彦、万代順四郎~」を開催いたします。”. 青山学院 (2018年10月30日). 2021年4月28日閲覧。
- ^ “青山学院を支えたサーバントリーダー”. 青学TV. 青山学院 (2018年11月13日). 2021年4月28日閲覧。
外部リンク
[編集]- 『間島弟彦』 - コトバンク
- 『間島 弟彦』 - コトバンク
- 間島弟彦 (第4版) - 『人事興信録』データベース