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開月勘太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

開月 勘太郎(かいげつ かんたろう、1899年2月2日 - 1966年7月16日)は、福岡県鞍手郡若宮町(現在の宮若市)出身で花籠部屋に所属した大相撲力士。本名は花田 勘太郎(はなだ かんたろう)。身長169cm、体重90kg。引退後は年寄として弟子を育てたこともあった。

来歴

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1916年に当時の尾車部屋に入門する。その後、兄弟子の三杦磯善七に従って、所属部屋はしばしば変った(尾車→峰崎→片男浪→伊勢ノ海→花籠)。幕内在位時の所属部屋は伊勢ノ海部屋であったが、三杦磯の引退とともに興した花籠部屋に移籍し、そこで現役を終えた。

169cmという小柄で、体重も90kgという軽量で、右四つから食い下がる相撲を得意とした。1921年5月に十両に昇進したが、そうした体格的なものもあって、幕内に上がったのが、7年後の1928年3月、幕内も3場所しか保てず、十両に陥落、さらには幕下にも落ちていた。1932年、春秋園事件の脱退力士を穴埋めする形で、1932年2月の番付では十両に返り咲いたが、幕内復帰はならず、1933年5月場所限りで現役を引退した。最高位は新入幕の場所の西前頭13枚目だった。

四股名は当初「海月」として「かいげつ」と読ませたが、「くらげ」とも読めるため、周囲から「くらげ」と呼ばれることを嫌がり、読みが同じである「開月」に変えた。

引退後は年寄片男波を襲名し、1939年から1942年まで部屋を経営したが、閉鎖し、弟子は三杦磯の花籠部屋にゆずった。その中には、のちに幕内に昇進した藤田山忠義がいた。その後、株を神風正一にゆずり、廃業した。

花田姓で花籠部屋所属だっだが、初代若乃花との血縁関係はない。

主な成績

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  • 幕内在位 3場所
  • 幕内成績 11勝21敗1分

場所別成績

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開月 勘太郎
春場所 三月場所 夏場所 秋場所
1916年
(大正5年)
(前相撲) x (前相撲) x
1917年
(大正6年)
(前相撲) x 東序ノ口38枚目
2–3 
x
1918年
(大正7年)
西序ノ口10枚目
4–1 
x 西序二段32枚目
4–1 
x
1919年
(大正8年)
西三段目42枚目
3–2 
x 西三段目18枚目
4–1 
x
1920年
(大正9年)
東幕下36枚目
5–0 
x 西幕下7枚目
2–3 
x
1921年
(大正10年)
東幕下17枚目
4–1 
x 西十両13枚目
3–4 
x
1922年
(大正11年)
東幕下2枚目
3–2 
x 西十両11枚目
0–5 
x
1923年
(大正12年)
東幕下11枚目
6–4 
x 西幕下8枚目
2–1 
x
1924年
(大正13年)
西幕下13枚目
3–2 
x 東幕下5枚目
4–2 
x
1925年
(大正14年)
西十両12枚目
4–2 
x 西十両7枚目
3–3 
x
1926年
(大正15年)
東十両10枚目
3–3 
x 東幕下5枚目
5–1 
x
1927年
(昭和2年)
西十両5枚目
3–3 
西十両5枚目
8–3 
東十両9枚目
4–2 
西十両筆頭
6–5 
1928年
(昭和3年)
東十両4枚目
6–5 
西前頭13枚目
4–6
1痛分
 
西前頭14枚目
2–9 
西前頭14枚目
5–6 
1929年
(昭和4年)
西十両2枚目
4–7 
西十両2枚目
4–7 
東十両7枚目
0–11 
東十両7枚目
3–8 
1930年
(昭和5年)
東幕下9枚目
1–5 
東幕下9枚目
3–3 
西幕下23枚目
3–3 
西幕下23枚目
3–3 
1931年
(昭和6年)
東幕下18枚目
3–3 
東幕下18枚目
3–3 
西幕下13枚目
2–4 
西幕下13枚目
5–1 
1932年
(昭和7年)
西十両3枚目
3–5 
西十両3枚目
6–4 
西十両3枚目
6–5 
西十両3枚目
3–8 
1933年
(昭和8年)
東十両11枚目
6–5 
x 西十両7枚目
引退
3–8–0
x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
  • 1932年1月番付では東幕下6枚目

関連項目

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