銀林綱男
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銀林綱男 ぎんばやし つなお | |
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生年月日 | 1844年5月6日 |
出生地 |
日本 越後国頸城郡青海村 (現・新潟県糸魚川市) |
没年月日 | 1905年9月20日(61歳没) |
前職 | 世界界博覧会出品事務委員 |
称号 |
従四位 勲六等単光旭日章 |
親族 | 曾孫・片山さつき(内閣府特命担当大臣) |
東京市会議員 | |
選挙区 | 麹町区選挙区 |
在任期間 | 1902年 - 1905年9月20日 |
官選 第6代 埼玉県知事 | |
在任期間 | 1892年12月23日 - 1894年1月20日 |
銀林 綱男(ぎんばやし つなお、1844年5月6日(弘化元年3月19日[1])- 1905年(明治38年)9月20日[2])は、幕末の尊攘運動家、明治期の内務官僚・実業家。官選埼玉県知事。孫に数学者の銀林浩、曾孫に政治家の片山さつきがいる[3]。同郷の前島密と親交があった[3]。
経歴
[編集]越後国頸城郡青海村(後の新潟県西頸城郡青海町→糸魚川市)の青海神社の宮司[4]銀林玄類の息子として生まれる[1]。江戸で医学、詩文を学んだ。戊辰戦争では新政府側の居之隊に属して転戦した[2]。
慶応4年(1868年)8月、新政府に出仕し民政方御用掛に就任。以後、新潟県少属、同一等警部を歴任。1976年、東京府に転じ、同大属、同戸籍掛長、同学務課長、同建築調査委員、同官報通信主任、同会計主務官代理などを務めた。1891年、世界界博覧会出品事務委員に就任[4]。
1892年12月、埼玉県知事に就任[5]。道路の改良整備に尽力。1894年1月20日、知事を非職となり[4]、同月31日、依願免本官[6]。その後、北越鉄道社長[2]、横浜火災運送保険株式会社 東京支店監督などを務めた[1]。1902年6月、東京市会議員に当選した[7][8][注釈 1]。市会議員在職中に死去した[10]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
出典
[編集]注釈
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 『人事興信録 明治36年4月刊行』人事興信所、1903年、p.1006
- ^ a b c 『日本人名大辞典』659頁。
- ^ a b @katayama_s (2021年10月23日). "午後6:13 · 2021年10月23日". X(旧Twitter)より2024年6月9日閲覧。
- ^ a b c 『新編日本の歴代知事』308頁。
- ^ 『官報』第2832号、明治25年12月5日、p.37
- ^ 『官報』第3175号、明治27年2月1日
- ^ 制限選挙期における東京市会議員総選挙の結果について(櫻井良樹)
- ^ 『東京市会史 第2巻』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『東京市会史 第2巻』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『東京市会史 第3巻』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『官報』第183号「叙任」1884年2月12日。
- ^ 『官報』第3199号「叙任及辞令」1894年3月1日。
- ^ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
- ^ 『官報』第1935号「叙任及辞令」1889年12月9日。
参考文献
[編集]- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。