コンテンツにスキップ

袁渙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
袁渙
後漢
郎中令・御史大夫
出生 生年不詳
豫州陳郡扶楽県
拼音 Yuán Huàn
曜卿
主君 劉備袁術呂布曹操
テンプレートを表示

袁 渙(えん かん、生没年不詳)は、後漢末期の政治家。曜卿豫州陳郡扶楽県(現在の河南省太康県)の人。父は袁滂(後漢の司徒)。子は袁侃・袁㝢・袁奥・袁準。子孫に袁瓌袁宏袁耽ら。袁紹ら汝南袁氏と直接の繋がりはない。

事跡

[編集]

袁術・呂布の配下として

[編集]

若い頃から地方官を歴任した。建安元年(196年)、劉備から茂才(秀才)に推薦された後、袁術に仕えた。常に正論でもって談し、袁術から敬意を持って遇された。

しかし建安2年(197年)、袁渙は袁術が呂布に敗戦した際に捕虜となってしまい、そのまま呂布に仕えることになった。ある時、呂布が袁渙に劉備を罵倒する手紙を書かせようとしたが、袁渙はこれを拒否した。このため呂布は武器を袁渙に突き付け、無理やり書かせようとした。しかし袁渙が顔色を変えることなく、逆に冷静さをもって「人を辱めるのに文書でもってしても、その人(劉備)の徳が高ければ対する者(呂布)が辱められるのです」と説得したため、呂布は恥じ入って引き下がった。

建安3年(198年)12月、呂布が曹操に滅ぼされた。陳羣ら他の降伏者たちが曹操に平伏する中、袁渙だけは曹操と対等の挨拶をした。また、曹操は降伏者に物資を分け与えた。この時、他の者が車一杯に物資を詰め込む中、袁渙は書籍数百巻と僅かの食料を引き取っただけだった。これらにより、袁渙は曹操から大いに尊重されたという。

曹操配下としての実績

[編集]

曹操の下では、沛郡南部都尉・梁国相・諫義大夫丞相軍祭酒・郎中令兼行御史大夫事を歴任し、主に内政面で献策を行なった。忠直の士として名声が高く、清貧にして慎重な人柄であり、教化訓戒を第一に心がける政治を行なって、人民から慕われた。また、ある時に劉備が死んだとの噂が伝えられたが、他の諸官が慶賀する中で、一人それに与しなかった。

袁渙が亡くなると、曹操は涙を流して悲しんだ。没年は不詳であるが、曹操が魏王となった建安21年(216年)から曹操が没した建安25年(220年)までの、いずれかの年と考えられる。東晋袁宏の「三国名臣序賛」(『文選』所収)では魏の9人、蜀の4人、呉の7人が名臣として賞賛されており、その中に名を挙げられている[1][2]

なお、小説『三国志演義』には登場しない。

参考文献

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 名臣20選には、荀彧荀攸袁渙崔琰徐邈陳羣夏侯玄王経陳泰(以上)、諸葛亮龐統蔣琬黄権(以上)、周瑜張昭魯粛諸葛瑾陸遜顧雍虞翻(以上)を選出している
  2. ^ 袁煥は「郎中温雅 器識純素 貞而不諒 通而能固 恂恂徳心 汪汪軌度 志成弱冠 道敷歳暮 仁者必勇 徳亦有言 雖遇履虎 神氣恬然 行不脩飾 名跡無愆 操不激切 素風愈鮮」と謳われている