蕭大器
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蕭 大器(しょう だいき、普通4年5月12日(523年6月10日)- 大宝2年8月17日[1](551年10月2日))は、南朝梁の皇太子。哀太子。字は仁宗。
経歴
[編集]簡文帝蕭綱の長男として生まれた。母は王霊賓。普通4年(523年)5月丁酉に生まれた。中大通4年(532年)、宣城郡王に封じられ、食邑2000戸を受けた。まもなく侍中・中衛将軍となった。大同4年(538年)、侍中のまま使持節・都督揚徐二州諸軍事・中軍大将軍・揚州刺史に任じられた。
太清2年(548年)10月、侯景が建康に侵攻すると、大器は台内大都督に任じられた。太清3年(549年)5月、父の簡文帝が即位した。6月丁亥、大器は皇太子に立てられた。大宝2年(551年)8月、侯景が簡文帝を廃位し、大器を殺害しようとした。侯景が大器を召し出したとき、大器は『老子』を講義していたところだった。大器は顔色を変えず、おもむろに「長らくこのことは知っていた。その遅いのを嘆くのみ」と言った。刑吏は衣の帯で絞殺しようとしたが、大器は「これでは殺されてやることができない」と言って、旗竿の下繩を指さして、それで絞殺するよう指示した。享年は29。承聖元年(552年)4月、哀太子と追諡された。
脚注
[編集]- ^ 『梁書』巻4, 簡文帝紀 大宝二年八月戊午条による。