羽川豊
Yutaka HAGAWA | |
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ringolfのYouTube動画に出演する羽川 (2018年12月) | |
基本情報 | |
名前 | 羽川 豊 |
生年月日 | 1957年12月8日(67歳) |
身長 | 180 cm (5 ft 11 in) |
体重 | 76 kg (168 lb) |
出身地 | 栃木県 |
経歴 | |
プロ転向 | 1980年 |
成績 | |
優勝回数 |
日本ツアー:5回 日本シニアツアー:2回 |
初優勝 | 日本オープン (1981年) |
賞金ランク最高位 | 日本ツアー:8位 (1981年、1991年) |
2013年8月18日現在 |
羽川 豊(はがわ ゆたか、1957年12月8日 - )は、栃木県出身のプロゴルファーである。日本では数少ないレフティ(左打ち)。
経歴
[編集]1979年、専修大学在学中に日本学生ゴルフ選手権競技で優勝。主将としてチームを率いた。1980年プロテスト合格。プロテストではダントツの−8で合格し、当時のプロテスト新記録を樹立した。翌81年には日本最高峰・日本のトップ大会である日本オープンで優勝。日本シリーズを23歳363日で優勝し(2023年優勝した蝉川泰果の22歳326日に更新されるまでの大会最年少記録[1])、同年代である湯原信光や倉本昌弘と共に「ニューウェーブ三羽烏」と称された。翌1982年には前年の日本での活躍から、マスターズに招待される。青木功、中嶋常幸と共に決勝ラウンドに進出し、ここでも15位と健闘、アメリカの選手や関係者から「現役では最高のレフティだ」と絶賛された。
だが、1984年にはシード権を喪失し、俗に言われる「イップス」にも悩まされるなどスランプに陥る。スランプは長く続き、1988年に現状を打破しようとジャンボ尾崎率いる「ジャンボ軍団」に加入した。ジャンボからは「4年悪かったんだから、4年かけて元に戻そう」と声をかけられ、スタミナ不足を解消するべく練習に励む。同年、シード権を取り返し、1991年には8年ぶりに優勝した。
2000年の日本プロゴルフ選手権を最後にイップスが原因で2008年まで試合に一切出場しなかった[2]。しかし、たまたま家に置いてあった長尺パターを使い、それがきっかけでイップスを克服、2008年にシニアツアーに参戦した[2]。そして、2011年にPGAフィランスロピーシニアトーナメントでシニアツアー初優勝、ツアー競技では20年ぶりの優勝であった[2]。
1998年からはゴルフ中継解説者として活躍。主にテレビ朝日のメジャー大会でのコースレポーター(全英オープン、全米オープン。かつては大町昭義プロと二人で担当していた)や、NHK、WOWOWなどで解説を担当。また、かつてはテレビ東京でゴルフ番組を担当していたこともある。また、都内で会員制のゴルフ教室「羽川豊ゴルフサロン」を主宰する。
優勝歴
[編集]日本ツアー (5)
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No. | 日時 | 大会 | 優勝スコア | 打差 | 2位 |
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1 | 1981年11月1日 | 日本オープンゴルフ選手権競技 | E (74-69-69-68=280) | 1打差 | 中嶋常幸、 森憲二 |
2 | 1981年12月6日 | ゴルフ日本シリーズ | -9 (70-65=135) | プレーオフ | 青木功 |
3 | 1983年6月5日 | 東北クラシック | -11 (70-69-67-71=277) | ||
4 | 1991年3月17日 | インペリアル・ゴルフトーナメント | -6 (70-72-66-74=282) | 1打差 | 尾崎直道 |
5 | 1991年3月24日 | ダイドー静岡オープンゴルフトーナメント | -10 (70-72-69-67=278) | 1打差 | 須貝昇 |
プレーオフ記録 (1-1)
[編集]No. | 年 | 大会 | 対戦相手 |
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1 | 1981年 | 関東プロゴルフ選手権 | 金井清一 |
2 | 1981年 | ゴルフ日本シリーズ | 青木功 |
その他
[編集]シニアツアー (2)
[編集]出典
[編集]- ^ “22歳の蝉川泰果、涙の史上最年少V 中島、石川遼、金谷との死闘制し「びっくりしている」 プロアマで史上初メジャー2冠 …日本シリーズJTカップ最終日(スポーツ報知)”. Yahoo!ニュース. 2023年12月3日閲覧。
- ^ a b c “羽川豊、イップスを乗り越えて掴んだ優勝”. ゴルフダイジェスト・オンライン (2011年7月8日). 2011年8月26日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 羽川豊 - 日本ゴルフツアー機構のプロフィール