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禅瀧寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
禅瀧寺
本堂
所在地 兵庫県加東市栄枝72
位置 北緯34度53分53.96秒 東経135度1分6.24秒 / 北緯34.8983222度 東経135.0184000度 / 34.8983222; 135.0184000座標: 北緯34度53分53.96秒 東経135度1分6.24秒 / 北緯34.8983222度 東経135.0184000度 / 34.8983222; 135.0184000
山号 神谷山
宗派 高野山真言宗
本尊 薬師如来(秘仏)
創建年 伝・大化年間(645年 - 650年
開基 伝・法道
中興年 明治14年(1881年
中興 瀧見常
別称 お大師さん(おだいっさん)
曼珠沙華の寺
札所等 播磨八薬師霊場6番
加東四国八十八カ所霊場73番
文化財 本堂(市文化財)、不動明王像(市文化財)、大般若経及び経櫃、経箱、経軸(市文化財)、弁天堂(市文化財)
公式サイト 神谷山禅瀧寺
法人番号 6140005016740 ウィキデータを編集
地図
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禅瀧寺(ぜんりゅうじ)は兵庫県加東市にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は神谷山(こうだにさん)。本尊は薬師如来日光菩薩月光菩薩(秘仏)。開祖は法道仙人と伝わる。

歴史

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大化年中、法道仙人が開基し、その後行基菩薩が訪れ、堂宇を建立して薬師如来日光菩薩月光菩薩の像を刻み本尊としたのが始まりとさる。寺名の由来については、青山四方に横たわった両巖の間に懸泉を見つけた法道仙人が思わずもらした「禅瀧なり……」(静寂な瀧)という言葉とされる[1][2][3]

開基については伝承の域を出ないが、禅瀧寺を囲う山の上には古墳群が在り[4][5]、東条川流域にも古代の集落や田畑の遺跡があるため[6]、古代から当地が信仰の対象になっていた事を伺うことができる。

1601年慶長6年)、領主池田輝政から境内高27石の寄進を受け、徳川三代将軍家光の時に改めて27石の御朱印寺となっている[1]

中世以前の最盛期には堂塔院坊が50有余もある天台宗の大寺院であったと伝わるが[3]依藤城の戦い等度々の兵火に遭い次第に減少し、江戸初期頃には高野山寶城院末の古義真言宗の寺院となった。

古義真言宗本末帳[7]によれば、「御朱印27石寺中分配、加東郡神谷山禅瀧寺之中9宇末寺1宇」とあり、「禅瀧寺之中」として、「持明院末寺2宇、土澤村東福寺、松澤村高市山光福寺」「金蔵院」「不動院」「西之坊」「竹中坊」「安楽坊」「愛染坊」「如意坊」「南之坊」「國依村阿弥陀寺」と記されている。

また播磨鑑には、「神谷山禅瀧寺、真言宗、東条神谷村、朱印寺領27石」「本堂、5間4面。御除地、6斗7升。高野山宝城院末寺。本尊、薬師如来、行基作」「不動堂、3間4面。本尊、不動明王、慈覚作」「弁天社」「鐘楼」「瀧号、禅流」「開基、法道仙人」「人王、37代、孝徳天皇、大化年中建立」「宝暦10年マテ1116年ニ成」「院ノ主、慈明院、不動院、座坊3軒[8]」とある[1][9]

その後明治の神仏分離令や寺領没収により衰退し、金蔵院持明院の二ヶ寺に減少した。

1881年明治14年)に持明院17代住職、瀧見常が真言宗播磨中学林を興し[10]、弟子の育成に勉めると共に禅瀧寺の再興に力を注いだ。

真言宗播磨中学林

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禅瀧寺に設けられた真言宗播磨中学林には多くの修学僧が収容されていた。その中からは高野山金剛峰寺の座主、管長になった和田性海[11]や、京都大覚寺門跡を務めた谷内清巖ら有力な僧を輩出している[12][13]

伽藍

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  • 本堂

元和6年(1620年8月27日付けの工事記録があり、また天和2年(1682年)から7年がかりで本堂を再建し、元禄元年(1688年)に完成させたとする記録が保存されている。本尊を納めた宮殿両脇の2本の丸柱は鎌倉時代のものと鑑定されている。[14]

加東郡誌、及び参照基の播磨鑑には本尊の不動明王像は慈覚大師の作とある。[17]

  • 経蔵
  • 辯天堂
  • 禅瀧

禅瀧寺の名前の由来となったと言われる瀧「禅瀧」は境内山中にある。瀧と言っているが、激しく水の落ちるようなものではなく水がポツリポツリと滴る静かな瀧である。[18]

  • 四国八十八ヶ所、西国三十三所写し霊場

本堂裏山内に弥勒菩薩を起点として点在している。写し霊場の石仏に頭部が無い物が多いのは、明治ごろの博打うちが験担ぎに持ち去ったためといわれる。

  • 金蔵院

塔頭の一つ。禅瀧寺参道の東側の山裾に建つ。通称「上ん寺(かみんてら)」

  • 持明院

塔頭の一つ。禅瀧寺参道の西側の山裾に建つ。通称「下ん寺(しもんてら)」

  • 山門

1854年(安政元年)小沢村、辻兵七清純が私費で建立寄進した。元は南へ300メートル程下った所、現在「神谷山」と道標の建つ位置にあった[19]

  • 近世以降の消失、その他

明治維新直前には塔頭に不動院が残っていたが、金蔵院に編入され廃寺となった[20]。不動院の門は同市内の佛頂山總持院楞嚴寺に移築され残っている[21]

昭和の初期までは本堂西側に鐘楼堂があったが、太平洋戦争鐘楼を供出し、その後台風で鐘楼堂も倒壊し解体された[22]

厚利にある山王神社は古くは神谷山の鎮守社であったが[3]、神仏分離令により切り離され、また禅瀧寺内の八幡社・秋葉社も山王神社へと移された[23]

加東市指定文化財

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  • 本堂[14]
  • 不動明王像[17]
  • 大大般若経及び経櫃、経箱、経軸[24]
  • 弁天堂[25]

ギャラリー

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札所

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御詠歌「もろびとの、心をいやす、禅瀧寺、るりの光を、与えましませ(もろびとの、こころをいやす、ぜんりゅうじ、るりのひかりを、あたえましませ)

御詠歌「参るべき、重き四恩に、報うべき、神谷立たば、何か祈らん(まいるべき、おもきしおんに、むくうべし、こうだにたたば、なにかいのらん)

関連項目

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脚注

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  1. ^ a b c 加東郡誌”. 国会図書館デジタルコレクション. p. 756. 2020年3月22日閲覧。
  2. ^ 東条町老人クラブ連合会 (1990年4月1日). ふるさと東条. 土江印刷株式会社. p. 73 
  3. ^ a b c 禅瀧寺の伝承による。
  4. ^ 全国遺跡地図、兵庫県. 文化庁文化財保護部. (1982年3月15日) 
  5. ^ 遺跡番号19-352~357
  6. ^ 埋蔵文化保護の手引き”. 兵庫県立考古博物館. 2020年3月22日閲覧。
  7. ^ 国会図書館デジタルコレクション、古義真言宗本末帳第11播磨国、52コマ
  8. ^ 慈明院は持明院の誤りか。また金蔵院の欠落、坊の省略等古義真言宗本末帳との相異が多い。
  9. ^ 加東郡誌P.576に播磨鑑を引用して記されている。
  10. ^ 瀧見常上人頌徳碑の文。
  11. ^ 但し「和田性海講話集」(1959年、高野山出版社)の巻末の略歴によれば「明治28年(1895年)に真言宗淡路中学林を卒業」とあるので、佐用町から淡路島へと移るまでに一時的に在籍したものと思われる。
  12. ^ 東条町老人クラブ連合会 (1990年4月1日). ふるさと東条. 土江印刷株式会社. p. 74 
  13. ^ 和田性海、谷内清巖の寄贈した書が持明院に残されている。
  14. ^ a b 市指定文化財、本堂(禅瀧寺)”. 加東市. 2020年3月22日閲覧。
  15. ^ 加東郡誌、及び参照基の播磨鑑には本尊の不動明王像は慈覚大師の作とある。
  16. ^ 市指定文化財、不動明王像(禅瀧寺)”. 加東市. 2020年3月22日閲覧。
  17. ^ a b 市指定文化財、不動明王像(禅瀧寺)”. 加東市. 2020年3月22日閲覧。
  18. ^ 由来となった懸瀧は弁天堂背面と写し霊場の最奥に2箇所ある。
  19. ^ 東条町老人クラブ連合会 (1990年4月1日). ふるさと東条. 土江印刷株式会社. p. 72 
  20. ^ 東条町老人クラブ連合会編の「ふるさと東条」P.73下段にはこの他に「宝性坊」「般若院」の記録があると書かれているが、古義真言宗本末及び、播磨鑑、加東郡誌等には見当たらない。
  21. ^ 建物と環境”. 総持院東條閣. 2020年4月3日閲覧。
  22. ^ 加東郡誌”. 国会図書館デジタルコレクション. p. 755. 2020年3月27日閲覧。
  23. ^ 加東郡誌”. 国会図書館デジタルコレクション. p. 638. 2020年3月22日閲覧。
  24. ^ 大般若経及び経櫃、経箱、経軸(禅瀧寺)”. 加東市. 2020年3月22日閲覧。
  25. ^ 市指定文化財、弁天堂(禅瀧寺)”. 加東市. 2020年3月22日閲覧。

外部リンク

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