村川堅太郎
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人物情報 | |
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生誕 |
1907年4月13日 日本東京都 |
死没 | 1991年12月23日 (84歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
学問 | |
研究分野 | 西洋史 |
研究機関 | 東京大学 |
村川 堅太郎(むらかわ けんたろう、1907年4月13日 - 1991年12月23日)は、日本の西洋史学者。東京大学名誉教授。日本学士院会員。
経歴
[編集]- 出生から修学期
1907年、東京帝国大学教授・村川堅固の長男[1][2]として東京浅草に生まれた。成蹊中学、浦和高等学校を経て、東京帝国大学西洋史学科に進んだ。1930年に卒業[3]。
- 西洋古典学研究者として
卒業後は、第一高等学校教授となった。1940年、東京帝国大学助教授に就任[4]。戦後の1947年に教授昇格。1968年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。1967年に日本学士院会員に選出された[5]。
1970年1月7日には講書始の儀で進講者をつとめ、「アリストテレスと歴史学」を講義した[6]。1991年に死去。
受賞・栄典
[編集]- 1959年:随筆『地中海からの手紙』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。
研究内容・業績
[編集]父に続いて西洋史研究を進め、ラテン語辞典編纂Thesaurus Linguae Latinae編纂などを通して、日本における古代ギリシャ、ローマ研究の基礎を築いた。その著作は『村川堅太郎古代史論集』(1993年)としてまとめられている[7]。
家族・親族
[編集]著書
[編集]- 単著
- 『地中海からの手紙』毎日新聞社 1958/中公文庫 1977 - 新版あとがき
- 『オリンピア:遺跡・祭典・競技』中公新書 1963/ちくま学芸文庫 2020年[9][10]
- 『古典古代游記』岩波書店 1993年 [11]
- Demiurgoi in Realenzyklopaedie der klassischen Alturtumswissenshaft
- 著作集
- 『村川堅太郎古代史論集』(全3巻) 岩波書店 1986 - 1987
- 古代ギリシアの国家
- 古代ギリシア人の思想
- 古典古代の社会と経済
- 編著・共編著
- 『ギリシャ研究入門』北隆館 1949
- 『世界史』江上波夫・山本達郎・林健太郎共著、山川出版社 1952
- 改訂『詳説 世界史』
- 『世界史小辞典』山川出版社 1968
- 『ギリシヤとローマ』(世界の歴史 2) 秀村欣二と 中央公論社 1961/中公文庫 1974
- 『古典古代の市民たち』(大世界史 2) 長谷川博隆・高橋秀と 文藝春秋 1967
- 『ギリシア・ローマの盛衰 古典古代の市民たち』講談社学術文庫 1993
- 『ヘロドトス トゥキュディデス』(世界の名著 5) 責任編集、中央公論社 1970
- 翻訳
- 『アリストテレス全集 経済学・アテナイ人の国制』河出書房 1939
- 『エリュトウラー海案内記』生活社 1946
- 中公文庫 1993[12]。改版 2011
- 『女の議会』アリストパネス著、要書房 1948/岩波文庫 1954
- 『アカルナイの人々』アリストパネス著、岩波文庫 1951
- 『ギリシア喜劇全集Ⅱ アリストパネス篇 アカルナイの人々、福の神』人文書院 1961[13]
- 『プルタルコス 世界古典文学全集 23』筑摩書房 1966。訳者代表
- 記念論集
参考文献
[編集]- 伊藤貞夫「村川堅太郎先生追悼」『西洋古典学研究』第40巻、日本西洋古典学会、1992年、195-197頁、doi:10.20578/jclst.40.0_195、NAID 110007382843。
- 村川夏子「〔講演記録〕村川堅固・堅太郎がのこしたもの」『国文研究』第55巻、熊本県立大学日本語日本文学会、2010年4月、35-51頁、CRID 1050001339170776704。
脚注
[編集]- ^ 第0261話・鵠沼文化人百選024(村川堅固・堅太郎)
- ^ 伊藤貞夫 1992
- ^ 『官報』第1000号、昭和5年5月3日、p.76
- ^ 東京帝国大学 編『東京帝国大学一覧 昭和15年度』東京帝国大学、1941年、429頁。
- ^ 日本学士院(物故会員)
- ^ 村川東大名誉教授ら三氏がご進講 講書始の儀『朝日新聞』1970年(昭和45年)1月7日夕刊 3版 9面
- ^ 伊藤貞夫「村川堅太郎先生追悼」
- ^ 村川堅太郎・堅固を語る
- ^ 文庫化にあたり橋場弦の解説が付されている。
- ^ 驚くことから歴史学は始まる:村川堅太郎著『オリンピア 遺跡・祭典・競技』橋場弦解説(webちくま)
- ^ 遺著で、伊藤貞夫・長谷川博隆 編
- ^ 増田義郎解説
- ^ 解説:ギリシア喜劇の歴史的背景。