本多利長
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本多利長像 | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 寛永12年(1635年) |
死没 | 元禄5年12月16日(1693年1月21日) |
別名 | 石見(通称) |
戒名 | 広徳院殿仁誉峯山道勇大居士 |
墓所 | 東京都港区六本木の教善寺 |
官位 | 従五位下越前守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱→綱吉 |
藩 | 三河岡崎藩主→遠江横須賀藩主→出羽村山藩主 |
氏族 | 本多氏(豊後守家) |
父母 | 父:本多忠利、母:井上正就の娘 |
兄弟 | 助久、利長、利朗、利政、利義、太田資次正室、本多重時室ら |
妻 |
正室:松平正綱の娘 継室:板倉重宗の長女 |
子 | 養子:助芳 |
本多 利長(ほんだ としなが)は、江戸時代前期の大名。三河国岡崎藩の第4代藩主、遠江国横須賀藩主、出羽国村山藩の初代藩主。官位は従五位下・越前守。広孝系本多家4代。
生涯
[編集]岡崎藩の第3代藩主・本多忠利の6男として誕生。正保2年(1645年)、父の死去で跡を継ぐ。このとき、岡崎藩6万石のうち、5万石を継いで、残りの1万石は兄・助久と弟・利朗に分与した。同年6月27日、遠江横須賀へ移封される。しかし天和2年(1682年)2月23日、不行跡や過酷な藩政を布いたとして改易された(本多政利の改易に連座したとも)。後に改めて、出羽村山郡内に1万石を与えられている。
村山移封後の利長について『土芥寇讎記』では、「昔の統治は悪かったが、今はいい」「領地召し上げ(村山移封)のあと行状が良くなった」と記されている。
元禄5年(1692年)12月16日、58歳で死去し、跡を甥で養嗣子・助芳(本多助久の次男)が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室、継室
養子
外部リンク
[編集]- 第二百二十九 本多越前守利長家之覺書 - 『改定史籍集覧』第16冊(近藤出版部、1906年)