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張美人 (宋仁宗)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

張美人(ちょうびじん、生年不詳 - 天聖6年9月27日1028年10月17日))は、北宋の第4代皇帝仁宗の美人(側室)。皇后を追贈されたが、同じく張姓の温成皇后とは別人である。

経歴

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貝州清河県の人。上将軍張美中国語版の子の張守瑛の義理の孫娘にあたる[1][2]。天聖初、郭氏とともに選抜され後宮に入った。仁宗は張氏を寵愛しており、皇后に立てたいと望んだが、皇太后劉氏が反対したため沙汰やみとなった。天聖2年(1024年)11月、皇太后の意のままに郭氏が皇后に立てられた。

2年後の天聖4年(1026年)4月、張氏は正五品才人となった。天聖6年9月癸丑(1028年10月12日)、正四品美人の位に進められて、その時にはもう病気になり、5日後(10月17日、霜降)に死去した。

明道2年(1033年)、皇太后劉氏が崩じた後、仁宗は初めて自身の実母が李宸妃であったことを知り、深く悼んだ。同年11月、張美人は皇后を追贈されたが、を賜ることと宗廟に祀ることはなかった。

脚注

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  1. ^ 『宋会要』景祐元年二月九日(1034年3月2日)、殿直の張師古(張美の曾孫)は、「故妹美人先詔令為臣祖守瑛之女、近蒙聖恩追冊充皇后、祖守瑛未蒙封贈」と求めた。「詔特贈鄧州観察使」。張美の家族と張美人とは、詔令による義理の親族関係とも考えられる。
  2. ^ 宋仁宗追封皇后的張美人(非温成)_華姒_華姒_新浪博客

伝記資料

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  • 『皇宋十朝綱要』
  • 『故美人張氏特追冊為皇后制』