将作大匠
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将作大匠(しょうさくたいしょう)は、中国の前漢以降にあった官職である。旧字で將作大匠。宮殿や宗廟等の造営、広く土木工事に携わった。
歴史
[編集]前漢
[編集]元は将作少府といい、景帝の中元6年(紀元前144年)に将作少府から将作大匠に改称した[1][2]。
将作大匠には丞(副官)2名と左候、右候、中候が付いた[2]。また属官に石庫令、東園主章令、左校令、右校令、前校令、後校令、中校令の七つの令があり、それぞれに石庫丞、東園主章丞など七つの丞がついた。また、主章長とその部下である主章丞があった[2]。後、武帝の太初元年(紀元前104年)に東園主章を木工と改称した[2]。成帝の陽朔3年(紀元前22年)には中候と左右前後中校の5丞を廃止した[2]。官秩は二千石。
『漢書』百官公卿表が記す職掌は「宮室を治める」ことで、宮殿の造営修築である[2]。しかし次のように、『漢書』の他の箇所では様々な土木建設に携わったことが記される。河平3年(紀元前26年)に黄河の治水にあたった光禄大夫の王延年を助けるため、成帝は将作大匠の許商を遣わした[3]。陽朔4年(紀元前21年)頃に将作大匠だった解万年は、皇帝の陵の造営を建言し、その造営にあたった[4]。哀帝は、寵愛する董賢の妻の父を将作大匠とし、董賢のために大邸宅を作らせた[5]。
後漢
[編集]後漢においては光武帝の建武中元2年(57年)に一旦廃止されて謁者が領することとされたが、章帝の建初元年(76年)に復活した。官秩二千石で、丞1名と左校令、右校令が属した。
将作大匠の人物
[編集]前漢
[編集]- 楊光 - 武帝の時(紀元前141年 - 紀元前87年)[6]
- 許商 - 河平3年(紀元前26年)頃[3]
- 乗馬延年 -河平3年(紀元前26年)以後に任[3]、陽朔4年(紀元前21年)以前に免[4]
- 解万年 - 陽朔4年(紀元前21年)以前に任 - 永始元年(紀元前16年)以前に免[4]
- 李長 - 成帝の時(紀元前33年 - 紀元前7年)[7]
- 蟜望 - 建平4年(紀元前4年)まで[8]
- 謝堯 - 元始4年(4年)まで[9]。
- 逯並 - 居摂2年(7年)見[10]
- 董賢の妻の父 - 建平2年(紀元前5年)以後、建平4年(紀元前3年)以前に任[5]
脚注
[編集]- ^ 『史記』巻11、孝景本紀第11、中6年。ちくま学芸文庫『史記』1の331頁。
- ^ a b c d e f 『漢書』巻19上、百官公卿表第7上。『『漢書』百官公卿表訳注』111頁。
- ^ a b c 『漢書』巻29、溝洫志第9(ちくま学芸文庫『漢書』3の493 - 495頁)。
- ^ a b c 『漢書』巻10、成帝紀第10、永始元年。ちくま学芸文庫版『漢書』1の313頁。
- ^ a b 『漢書』巻93、佞幸伝第63。ちくま学芸文庫版『漢書』7の527頁。
- ^ 『漢書』巻70、傅常鄭甘陳段伝第40。ちくま学芸文庫版『漢書』6の227頁。
- ^ 『漢書』巻30、芸文志第10、六芸、小学。ちくま学芸文庫版『漢書』3の529頁、531頁。
- ^ 『漢書』巻19上、百官公卿表第7下。『『漢書』百官公卿表訳注』220頁。
- ^ 『漢書』巻19上、百官公卿表第7下。『『漢書』百官公卿表訳注』222頁。
- ^ 『漢書』巻84、翟方進伝第54。ちくま学芸文庫版『漢書』7の159頁。