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奥寺八左衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

奥寺 八左衛門(おくでら はちざえもん、寛永3年(1626年)8月 - 貞享3年1月7日1686年1月30日))は、江戸時代前期の武士治水[1]。名は定恒[1]。通称は初め市之丞[1]。父の右馬丞則定慶長5年(1600年)の岩崎一揆の際に活躍した浪人[2]

経歴・人物

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陸奥国津軽郡奥寺村に生まれた[2]。浪人ののち盛岡藩士となり、作事奉行などを務める[2]寛文5年(1665年)から和賀郡村崎野の新田開発に着手[1]和賀川から2本の堰を通し、延宝7年(1679年)6891石の新田(奥寺新田)を拓いた[1][2]

大正4年(1915年)、従五位を追贈された[3]

脚注

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  1. ^ a b c d e デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『奥寺八左衛門』 - コトバンク
  2. ^ a b c d 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞社)『奥寺八左衛門』 - コトバンク
  3. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.39