大蛇潟大五郎
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大蛇潟 大五郎(おろちがた だいごろう、1863年1月(文久2年12月) - 1916年1月9日)は、現在の千葉県市川市鬼越[1]出身で宮城野部屋、錦戸部屋、錦島部屋に所属した力士。本名は錦嶋 七太郎(旧姓岡田)。7代錦島。身長178cm、体重101kg。最高位は西前頭筆頭。
略歴
[編集]1885年5月に二枚目格付出で初土俵。1889年5月十両昇進した。1892年6月に新入幕、以後1907年1月に44歳で引退するまで連続で幕内に在位。また錦島部屋では二枚鑑札。引退後は親方業に専念したが、1916年に没した。享年55。
成績
[編集]- 番付在位場所数:44場所
- 幕内成績:74勝86敗88休43分9預(30場所)
- 十両成績:22勝22敗10分3預(6場所)
場所別成績
[編集]春場所 | 夏場所 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|
1885年 (明治18年) |
x | 幕下付出 –[2] |
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1886年 (明治19年) |
東幕下61枚目 –[2][3] |
西幕下46枚目 –[2][4] |
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1887年 (明治20年) |
西幕下32枚目 –[3] |
西幕下50枚目 –[5] |
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1888年 (明治21年) |
西幕下24枚目 –[6][4] |
西幕下16枚目 –[4] |
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1889年 (明治22年) |
西幕下10枚目 1–0 1分 (対十両戦)[5] |
西十両5枚目 5–2 2分[5] |
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1890年 (明治23年) |
西十両2枚目 3–5 1分[5] |
東十両4枚目 2–6 1分[5] |
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1891年 (明治24年) |
東十両5枚目 4–2 2分2預[7] |
東十両筆頭 4–4 2分 |
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1892年 (明治25年) |
東十両筆頭 4–3 2分1預 |
東前頭11枚目 4–4–1 1預 |
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1893年 (明治26年) |
東前頭8枚目 3–5–1 1分 |
東前頭8枚目 1–3–6 |
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1894年 (明治27年) |
東前頭11枚目 4–2–1 3分 |
東前頭10枚目 5–2–1 2分 |
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1895年 (明治28年) |
西前頭5枚目 0–0–10 |
西前頭9枚目 2–2–3 3分 |
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1896年 (明治29年) |
西前頭7枚目 2–4–3 1分 |
西前頭5枚目 4–2–1 2分1預 |
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1897年 (明治30年) |
西前頭3枚目 6–2–1 1分 |
西前頭2枚目 0–0–10 |
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1898年 (明治31年) |
東前頭6枚目 3–4–1 2分 |
東前頭8枚目 3–4–2 1分 |
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1899年 (明治32年) |
西前頭8枚目 3–4–1 1分1預 |
西前頭7枚目 1–1–7 1分 |
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1900年 (明治33年) |
東前頭7枚目 4–2–2 2分 |
東前頭4枚目 3–4–1 2分 |
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1901年 (明治34年) |
西前頭4枚目 4–1–1 2分2預 |
西前頭筆頭 2–5–1 1分1預 |
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1902年 (明治35年) |
西前頭4枚目 3–2–1 4分 |
西前頭3枚目 0–4–5 1預 |
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1903年 (明治36年) |
西前頭6枚目 4–3–1 2分 |
西前頭3枚目 3–4–1 2分 |
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1904年 (明治37年) |
西前頭7枚目 0–6–1 3分 |
東前頭14枚目 3–5–1 1分 |
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1905年 (明治38年) |
西前頭9枚目 1–2–7 |
東前頭12枚目 4–4–1 1分 |
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1906年 (明治39年) |
西前頭9枚目 1–4–1 3分1預 |
西張出前頭13枚目 1–1–5 3分 |
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1907年 (明治40年) |
西張出前頭14枚目 引退 0–0–10 |
x | ||||
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
- この時代は、幕内力士は千秋楽(10日目)には取組が組まれず、出場しないのが常態であったので、各場所の1休はそれに該当するものであり、実質的には9日間で皆勤である。
- 幕下以下の地位は小島貞二コレクションの番付実物画像による。また当時の幕下以下の星取や勝敗数等の記録については2024年現在相撲レファレンス等のデータベースに登録がないため、幕下以下の勝敗数等は暫定的に対十両戦の分のみを示す。
改名
[編集]上の名前は番付上の表記揺れを考えなければ改名歴なし。 [8] [9] 下の名前は1890年5月場所まで「七五郎」、1891年1月場所から「大五郎」。
参考文献
[編集]脚注
[編集]- ^ “千葉県出身の幕内力士”. 千葉県ホームページ. 2020年2月25日閲覧。
- ^ a b c 当時は番付表の上から二段目は十両と幕下に分けられておらず、十両の地位は存在せず幕内のすぐ下が幕下であった。この当時の幕下は、十両創設後現代までの十両・幕下と区別して二段目とも呼ぶ。
- ^ a b 番付上の表記は「大ろちがた 七五郎」(「がた」は変体仮名)。
- ^ a b c 番付上の表記は「大蛇がた 七五郎」(「がた」は変体仮名)。
- ^ a b c d e 番付上の表記は「大蛇泻 七五郎」。
- ^ この場所より十両創設(番付表記上十両と幕下が分離される)。
- ^ この場所以降の番付上の表記は「大蛇泻 大五郎」。
- ^ http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3517&l=j
- ^ 大相撲力士名鑑平成13年版、水野尚文、京須利敏、共同通信社、2000年、ISBN 978-4764104709