六角満高
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時代 | 南北朝時代 - 室町時代前期 |
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生誕 | 正平20年/貞治4年(1365年)?/正平24年/応安2年(1369年)? |
死没 | 応永23年11月17日(1416年12月6日) |
改名 | 亀寿(幼名)、満高 |
戒名 | 大慈院宝山崇寿 |
官位 | 備中守、左京大夫 |
幕府 | 室町幕府 近江守護 |
氏族 | 六角氏 |
父母 | 六角氏頼、藤原氏 |
兄弟 | 義信、満高 |
妻 | 足利基氏娘 |
子 | 満綱、斯波満種室? |
六角 満高(ろっかく みつたか)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての守護大名。近江国守護。六角氏8代当主。
生涯
[編集]父の死後、幼い満高に代わって佐々木氏傍流の京極高詮が父の猶子として家督を継いでいたが、天授3年/永和3年(1377年)に追放され、満高が家督を継いだ。3代将軍・足利義満に信任され、子・満綱の室に義満の娘を迎えている。義満の死後、足利義持が4代将軍になると六角氏と幕府との関係は悪化し、応永17年(1411年)の飛騨の乱では飛騨国への出陣命令を拒否していたのをきっかけに、応永17年12月21日(1411年1月15日)に一時守護を解任され[2]て同族の青木持通が任ぜられた[3]が、すぐに復帰している。
応永23年(1416年)に亡くなり、満綱が家督を継いだ。
幼少時から足利義満に近侍を許された愛童の1人であるが、余りに重用されているために満高を義満の弟とする説もある[4]。
脚注
[編集]- ^ 足利義詮の子とも。
- ^ 『南方紀伝』応永17年12月21日条
- ^ 下坂守「近江守護六角氏の研究」『古文書研究』12号、1978年。/所収:新谷和之 編『近江六角氏』戒光祥出版〈シリーズ・中世西国武士の研究 第三巻〉、2015年。ISBN 978-4-86403-144-8。
- ^ 臼井信義『足利義満』(新装)吉川弘文館〈人物叢書〉、1989年、222頁。ISBN 4-642-05150-3。