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倉田文人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
くらた ふみんど
倉田 文人
別名義 クラタ・フミンド
生年月日 (1905-01-25) 1905年1月25日
没年月日 (1988-01-28) 1988年1月28日(83歳没)
出生地 日本の旗 日本 大分県速見郡山香町(現在の同県杵築市山香町)
職業 映画監督脚本家映画プロデューサー
ジャンル 映画
活動期間 1929年 - 1956年
主な作品
北へ帰る
悦ちゃん
ノンちゃん雲に乗る
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倉田 文人(くらた ふみんど、1905年1月25日 - 1988年1月28日)は、日本の映画監督脚本家映画プロデューサーである[1][2]

人物・来歴

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日活現代劇からインドネシアへ

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1905年(明治38年)1月25日大分県速見郡山香町(現在の同県杵築市山香町)に生まれる[1]

1929年(昭和4年)、日活太秦撮影所現代劇監督部に入社、木村次郎に師事、同年、木村の監督した『名なし鳥』に助監督としてクレジットされる[1][2][3]。同撮影所の同部で、溝口健二田坂具隆に師事する助監督の熊谷久虎と知り合う[1][4]。1932年(昭和7年)、谷幹一主演の『とかく女と言ふものは』で監督に昇進した[1][2]

1934年(昭和9年)、新たに開所した日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に異動する[1][2]。1938年(昭和13年)に手がけた『北へ帰る』で監督としての評価を得る[1]。1940年(昭和15年)に手がけた『沃土万里』が、同撮影所での最後の作品となる[2]

1942年(昭和17年)、太平洋戦争に従軍する[1]インドネシアジャカルタで、「インドネシア映画芸術家連盟」を組織する[1]。1943年(昭和18年)に『セレベス新聞』が行った座談会に、当時、ジャワ映画会社理事長の大宅壮一、映画監督の石本統吉東宝営業部長の三橋哲夫、美術家の河野鷹思、作曲家の飯田信夫活動弁士松井翠声大阪商科大学教授の別枝篤彦、小説家の武田麟太郎とともに参加している[5]。倉田はそこで、インドネシアの映画製作の状況として、ジャカルタに6か所、スラバヤマランにそれぞれ1か所の撮影所があり、技術者はほとんどが華僑であって、インドネシア人がいないことを述べ、その状況に対して、倉田は、映画製作等の文化指導を行っていたようである[5]。倉田は、日本映画社ジャカルタ撮影所インドネシア映画部長として、『南の願望』(監督Rd・アリフィエン、1944年)を製作している。当時のジャワの宣伝班には、ほかにも、小説家の阿部知二、漫画家の横山隆一、画家の小野佐世男らがいた。

藝研

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1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦終了後は、1947年(昭和22年)に東横映画で、『女だけの夜』を監督することで、日本の商業映画界に復帰している[2]。1949年(昭和24年)には、旧知の元同僚・熊谷久虎を代表に、映画芸術研究所(藝研、芸研プロダクション)を設立、俳優ブローカーの星野和平、映画監督の森永健次郎、俳優の佐分利信らとともに取締役に名を連ねた[6][7]。設立第1作は、倉田が「クラタ・フミンド」名義で監督した『殿様ホテル』であった[7]

芸研は1951年(昭和26年)に一度解散するが、星野が新東宝に取締役として入社した1955年(昭和30年)には第2期として再始動し、倉田が監督した『ノンちゃん雲に乗る』が、新東宝で配給される[1][8]。ほかには、記録映画を手がけた[1]

1988年(昭和63年)1月28日、死去した[1]。満83歳没。

大映で活躍した女優の倉田マユミは娘。

フィルモグラフィ

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特筆のないものはすべて「監督」のみ[2]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 倉田文人、映像作品データベース、武蔵野美術大学、2012年4月24日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 倉田文人日本映画データベース、2012年4月24日閲覧。
  3. ^ 名なし鳥日本映画データベース、2012年4月24日閲覧。
  4. ^ 熊谷久虎、日本映画データベース、2012年4月24日閲覧。
  5. ^ a b 『南方徴用作家叢書 11』、p.45-53.
  6. ^ 講演「佐分利信を再見する 第3回アナクロニズムの会」木全公彦、2009年10月10日、アテネフランセ文化センター、2012年4月24日閲覧。
  7. ^ a b 殿様ホテルキネマ旬報映画データベース、2012年4月24日閲覧。
  8. ^ 熊谷久虎アテネフランセ文化センター、2012年4月24日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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