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伍朝枢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伍 朝枢
伍 朝樞
1928年の肖像写真(オートクローム撮影)
生年月日 1887年5月23日
出生地 清の旗 直隷省天津府天津県(現:天津市
没年月日 (1934-01-03) 1934年1月3日(46歳没)
死没地 イギリス領香港
所属政党 中国国民党

在任期間 1931年12月29日 - 1932年5月21日
主席 林森

在任期間 1927年5月11日 - 1928年2月10日
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伍 朝枢
職業: 政治家・外交官
籍貫地 広東省新会県
各種表記
繁体字 伍 朝樞
簡体字 伍 朝枢
拼音 Wǔ Cháoshū
ラテン字 Wu Ch'ao-shu
和名表記: ご ちょうすう
発音転記: ウー・チャオシュー
英語名 Dr. C. C. Wu
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伍 朝枢(ご ちょうすう、1887年5月23日光緒13年閏4月初1日〉 - 1934年1月3日)は、清末民初の外交官・政治家。北洋政府国民政府で主に外交の要職に就いた。梯雲籍貫広東省新会県。父は政治家である伍廷芳

事績

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パリ講和会議の代表に

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1897年光緒23年)、父の伍廷芳に従って伍朝枢も渡米し、ワシントンで初等、中等教育を受けた。1905年(光緒31年)に帰国し、広東省で役人となる。1908年(光緒34年)、官費によりイギリスに留学して、ロンドン大学で法律を専攻する。卒業後はケンブリッジ大学大学院で、弁護士資格を取得した。

1912年民国元年)に帰国し、同年5月に湖北都督府外交司長に就任する。同年9月、北京入りして外交部弁理条約事宜に異動した。1913年(民国2年)、広東選出の国会議員となり、国民党の憲法起草員となった。1915年(民国4年)、国務院参議兼外交部参事となる。1916年(民国5年)1月、袁世凱の皇帝即位に反発して、辞職・帰郷した。

同年6月の袁世凱の死去後に、伍朝枢は北洋政府に復帰し、やはり外交部参事をつとめた。1917年(民国6年)の府院の争いでは、大総統黎元洪を支持して、国務総理段祺瑞と対立する。9月、孫文護法運動を開始すると、伍朝枢も南下してこれに参加した。孫文の広東軍政府においては、父の伍廷芳が外交部長、伍朝枢は外交部次長を務めるという異例の人事となっている。同年12月、王正廷らと共に南方代表としてパリ講和会議に出席し、ヴェルサイユ条約調印拒否に主導的な役割を果たした。

中国国民党での活動

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1921年(民国10年)5月、非常大総統に就任した孫文の下で、伍廷芳は外交部長兼財政部長となり、伍朝枢も引き続き外交部次長をつとめた。10月、北洋政府からワシントン会議代表に指名されたが、伍朝枢は実際に参加することを拒否した。1922年(民国11年)6月の陳炯明の反逆においても、伍廷芳親子は孫文を支持した。しかしまもなく、伍廷芳は病に倒れて死去した。

1923年(民国12年)3月、陳炯明を破った孫文が陸海軍大元帥本営を設立すると、伍朝枢は外交部長に就任し、孫文の対外宣言の英文原稿準備などを担当した。1924年(民国13年)1月、中国国民党第1回全国代表大会に出席する。2月に商民部長に就任し、8月には政治委員会秘書長となった。しかし伍朝枢自身は、孫文の三大政策には批判的・消極的な立場であった。

孫文死後の1925年(民国14年)7月、広州で成立した国民政府において、伍朝枢は国民政府委員、軍事委員会委員、司法委員会委員、広州市政庁委員長となる。1926年(民国15年)3月に中山艦事件が勃発し、蔣介石汪兆銘胡漢民との対立が始まると、伍朝枢は後者を支持した。しかし同年5月、この政争に敗北して辞任し、上海に引きこもる。

条約改正を目指して

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1927年(民国16年)9月、南京国民政府において外交部長として復帰する。同年11月には、不平等条約撤廃を諸国に求める宣言を発した。以後、不平等条約撤廃の外交交渉の努力が、後任の外交部長たちによってなされることになる。

1928年(民国17年)初めに、伍朝枢は外交部長を辞任し、欧米各国を視察した。同年7月、伍朝枢は国民政府の全権代表に任じられ、アメリカと条約改正交渉を行う。同年、駐米大使に任じられ、さらなるアメリカとの交渉の末に、新たな条約を結んだ。しかし、関税自主権の完全なる回復はならず、領事裁判権撤廃の要求も拒絶されている。なお、1931年(民国20年)5月に、ミズーリ大学から法学博士を贈呈された。

1931年(民国20年)4月に、胡漢民が蔣介石により軟禁され、汪兆銘・孫科らが広州で非常会議を開催する。伍朝枢も6月に帰国して、広州側の広東省政府主席兼瓊崖特別行政区長官に任命された。同年10月に、両派の対立が収束すると、12月に伍朝枢は司法院院長に任命された。しかし、1932年(民国21年)5月には辞任している。その後も、政治活動に精彩を欠き、まもなく完全に政界から引退した。

1934年(民国23年)1月3日、香港で病没。享年48(満46歳)。

参考文献

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  • 鄭則民「伍朝枢」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第9巻』中華書局、1997年。ISBN 7-101-01504-2 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
中華民国の旗 中華民国
先代
(創設)
南京国民政府常務委員
1927年4月 - 9月
(集団指導制:胡漢民古応芬
張静江
次代
集団指導制:汪兆銘ら5名
先代
(創設)
外交部長
1927年5月 - 1928年2月
(1928年1月、郭泰祺代理)
次代
黄郛
先代
王寵恵
司法院長
1931年12月 - 1932年5月
次代
居正