ヒンドゥー教
ヒンドゥー教 | |
---|---|
国・地域 | インド・ネパールなどの南アジア及びインドネシア・バリ州とモーリシャス |
信者数 | 約11億人 |
成立年 | 紀元前13世紀頃に前身となるバラモン教が発展 |
創始者 | 無し(自然形成) |
信仰対象 | 多神教、一神教、汎神論、不可知論、無神論など[1][2] |
聖典 | リグ・ヴェーダなど |
宗派 |
ヴィシュヌ派 シヴァ派 シャクティ派 スマルタ派など |
聖地 |
インド・バラナシ インド・リシケーシュ |
発祥地 | 古代インド |
教義 | 輪廻・解脱など |
インド哲学 - インド発祥の宗教 |
ヒンドゥー教 |
---|
ヒンドゥー教(ヒンドゥーきょう、ヒンドゥーイズム、英: Hinduism、ヒンディー語: हिन्दू धर्म、サンスクリット: सनातनधर्मः)、慣用表記でヒンズー教、ヒンヅー教、ヒンド教、ヒンドゥ教は、インドやネパールで多数派を占める民族宗教、またはインド的伝統を指す。西欧で作られた用語である[3]。ヒンドゥー教徒の数はインド国内で10億人、その他の国の信者を合わせると約11億人以上とされ、キリスト教、イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目の宗教である[4][5]。
語源と名称
[編集]「ヒンドゥー」 Hindu の語源は、サンスクリットでインダス川を意味する sindhu に対応するペルシア語。「(ペルシアから見て)インダス川対岸に住む人々」の意味で用いられ[6]、西欧に伝わり、インドに逆輸入され定着した[3]。同じ語がギリシアを経由して西欧に伝わって India となり、こちらもインドに逆輸入されて定着した[3]。漢訳では「身毒」「印度」と表記され、唐代にインドへ旅した仏教僧玄奘による「印度」が定着している[3]。インドが植民地化された時代にイギリス領インド帝国を支配した大英帝国側が、インド土着の民族宗教を包括的に示す名称として採用したことから、この呼称が広まった。そのため、英語のHinduは、まずイスラム教徒(ムスリム)との対比において用いられるのが現在では一般的で、イスラム教徒以外で小宗派[注 1]を除いた、インドで5億人を超えるような多数派である、インド的な複数の有神教宗派の教徒の総称である[3]。
同じくヒンドゥー教と訳される英語のHinduismは、最も広い意味・用法ではインドにあり、また、かつてあったもの一切が含まれていて、インドの歴史では先史文明のインダス文明まで遡るものであるが[3]、一般的には、アーリア民族のインド定住以後、現代まで連続するインド的伝統を指す[3]。このうち仏教以前に存在した宗教をバラモン教(Brahmanism)、特にヴェーダ時代の宗教思想をヴェーダの宗教(Vedic Religion)と呼ぶこともあるが、これは西欧で作られた呼び名である[3]。インド哲学研究者の川崎信定は、これらの用法は、日本の漢訳仏典の中の仏教・内道に対応する婆羅門教(ばらもんきょう)の用法に対応していると言える、と述べている[3]。
ヒンドゥー教を狭い意味で用いる場合、仏教興隆以後発達して有力になったもので、とくに中世・近世以後の大衆宗教運動としてのシヴァ教徒、ヴィシュヌ教徒などの有神的民衆宗教を意識しての呼び方であることが多い[3]。
日本では慣用表記ではヒンズー教、ヒンド教、一般的にはヒンドゥー教と呼ばれるが、時にインド教と呼ばれることもある[7]。中国では「印度教」と呼ばれる。
信者
[編集]- 地域やカースト(後述)によって信仰形態が著しく異なる
- 多数の言語を話す人々に信仰されている
- ヒンドゥー教の聖典「ヴェーダ」は古代インドのヴェーダ語で書かれている。しかし現在のインド人はヴェーダ語から生じた古典サンスクリットではなく、各地の言語で生活しており、インドは多言語国家である。インド憲法で公式に認められた公用語は23言語、他に準公用語の英語がある。例えば世界遺産マハーバリプラムがあるタミル・ナードゥ州ではタミル語が使われ、隣のアーンドラ・プラデーシュ州(数多くの遺跡があるハイデラバードを州都とする)ではテルグ語が話されている。タミル語とテルグ語は言語も文字も違う。更にデリーの人はまた別の言葉ヒンディー語を話す。よってヒンドゥー教を「様々な言語を話す人々に信仰されている宗教である」ということも可能である。
- アジア地域などにおける信仰の広がり
特徴
[編集]狭い意味でのヒンドゥー教は、バラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。紀元前2000年頃にアーリア人がイランからインド北西部に侵入した。彼らは前1500年頃ヴェーダを成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。
紀元前5世紀頃に政治的な変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌を迫られた。その結果、バラモン教は民間の宗教を受け入れ同化してヒンドゥー教へと変化して行く(バラモン教もヒンドゥー教に含む考えもある)。ヒンドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 - 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになった[9]。その後、インドの民族宗教として民衆に信仰され続けてきた。
神々への信仰と同時に輪廻や解脱といった独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)や職業(ジャーティ)までを含んだカースト制等を特徴とする宗教である。
三神一体(トリムールティ)とよばれる近世の教義では、中心となる3大神、すなわち
は一体をなすとされている。 しかし現在では、ブラフマー神を信仰する人は減り、ヴィシュヌ神とシヴァ神が二大神として並び称され、多くの信者がいる。ヴィシュヌ神を信仰するヴィシュヌ派はヴィシュヌ教、シヴァ神を信仰するシヴァ派はシヴァ教とも呼ばれ、シヴァ教は一神教である[2]。ヒンドゥー教は多神教のイメージが強いが、これは表面的な見方であり、深い信仰(バクティ)が存在する場面では、信徒は一神教的信仰を抱いている[2]。
ヒンドゥー教の神や祭祀は一部形を変えながらも、日本の仏教に影響を与えている。以下にヒンドゥー教の特徴を解説する。
ヒンドゥー教の範囲
[編集]インド国内の広義の定義においては、「ヒンドゥー教」にはキリスト教やイスラム教などインド以外の地域で発祥した特定宗教以外の全ての宗教が相当する。一例として、インドにおいて仏教はヒンドゥー教の一派とされる。インド憲法25条では、(ヒンドゥー教から分派したと考えられる)シク教、ジャイナ教、仏教を信仰する人も広義のヒンドゥーとして扱われている[10]。
ヒンドゥー教には極めて様々な信仰、霊性や風習が包括され、かつ体系化されている。一方でキリスト教に見られるような教会制度や宗教的権威は存在せず、また預言者も居なければ纏まった形の共通の聖典も存在しない。よってヒンドゥー教徒は多神教、汎神論、一神教、不可知論、無神論、ヒューマニズムを自身の思想として自由に選ぶことができる[1][11][12]。ヒンドゥー教の包含する信仰、思想、真理は広範で、そのため「ヒンドゥー教」に包括的な定義を与えることは困難である[13][14]。これまでにも、1つの宗教である、1つの風習である、信仰の集合である、生活様式である、と言った具合に様々に定義されてきた[15][注 2]。西洋の言葉上の観点からはヒンドゥー教は、例えばキリスト教等と同様に1つの宗教であるとされているが、インドでは「ダルマ」(dharma)という語が好まれる。この語はいわゆる「宗教」よりも意味が広い。特にヒンドゥー教の伝統主義者はサナータナ・ダルマ(Sanatana Dharma、永遠の、あるいは古代のダルマの意)という語を好む[16]。
インド、インドの文化、インドの宗教に関する研究、そしてヒンドゥー教の定義は、植民地主義の利益を目的とし、西洋の持つ「宗教」という概念の枠組みから行われてきた[17]。1990年以降はこれら西洋のもたらした影響や、それによって生じた変化などがヒンドゥー教の研究者の間でも議題に挙がるようになり[18][注 3]、それは西洋的視点に対する批判へと引き継がれている[19]。
主要な神々
[編集]3大神はそれぞれ神妃をもち、夫婦共に多様な化身を有する。
- ヴィシュヌ神
- 世界維持の神、慈愛の神、毘盧遮那、盧遮那。鳥神ガルーダに乗る。10大化身と呼ばれる多数の分身を有するが、それぞれの分身にはヴィシュヌ神としての自我は無く、それぞれの自我を持つ。例えば釈迦は釈迦であって釈迦ではなく、ヴィシュヌ神である。10大権現という概念の方が理解しやすい。
- シヴァ神
- 創造と破壊の神、乗り物は牡牛のナンディン、虎の皮をまとい首にコブラを巻く。しばしば結跏趺坐して瞑想する姿で描かれる。北伝仏教では大自在天(降三世明王に降伏され仏教に改宗したとされる)。
- ブラフマー神
- 形而上および現実に存在する全てに対して実存するための縁起を与える神。神であれ、人であれ、実存しているのならばブラフマーの働きに依存している。神学的哲学の根元。擬人化され水鳥ハンサに乗った老人の姿で表される。北伝仏教では梵天。新義真言宗では大日如来。釈迦もしばしば言及したとされる。
3大神は、信者個人の信仰においては並立しているわけではない。たとえば「シヴァ神」を最高神と崇める人にとって、「ヴィシュヌ神」は劣位ではあるが敬うべき神である。また神話の中で3大神の化身と共に活躍する神や、3大神の子神も信仰されている。
- ガネーシャ
- シヴァ神の子供で象の頭を持つ神、鼠に乗る。富と繁栄、智恵と学問を司る。北伝仏教では歓喜天(聖天)。
- ハヌマーン
- 外見が猿の神、叙事詩『ラーマーヤナ』でラーマ王子を助けて活躍する。身体の大きさを自由に変えられる。孫悟空の元になったと考えられる。
- インドラ
- 雷神、天空神。『リグ・ヴェーダ』の中心的な神で、古くバラモン教の時代には盛んに信仰された。北伝仏教では帝釈天。
- カーマ
- 恋愛、性愛、和合を司る神。
インドの国立博物館にヒンドゥー教の神々の多様な神像が収蔵・展示されている。
四住期
[編集]四住期(アーシュラマ)とはヒンドゥー教独特の概念で、最終目標の解脱に向かって人生を4つの住期に分け、それぞれの段階ごとに異なる目標と義務を設定したもの。なお四住期は、上位ヴァルナのバラモン、クシャトリア、ヴァイシャにのみ適用され、エーカージャ(一生族)であるシュードラ及び女性には適用されない[20]。四住期について概略を示す。
- 受胎から入門式(8 - 12歳)までは四住期に入らず、この間は一人前の人間とは見なされない。
- 学生期 - 本来の意味は、特定の師匠(グル)に弟子入りして聖典ヴェーダを学習する時期であったが、クシャトリアは武人としての技能の鍛錬や行政統治の実務の勉強も行い、ヴァイシャも世襲の職業に関する勉強も行った。現在では就学期間に相当。
- 家住期 - 学生期を終えると家業に務め結婚して家族を養う家住期に入る。男子をもうけて先祖の祭祀を絶やさないことが重要視される。このためインドでは中国のような一人っ子政策は受け入れられにくい。『カーマ・スートラ』は家住期を充実させるための経典である[21]。家住期において家長は家業を繁栄させて大いに儲け、その金を喜捨することも重要と考えられている。
- 林住期 - 家住期を終えると解脱に向けた人生段階に入る。孫の誕生を見届けた家長は家を離れて荒野や林に住み、質素で禁欲的な生活を営む。
- 遊行期 - 林住期を終えると住まいを捨てて遍歴行者となって放浪し、解脱を目指す。
過去においても現在でも、全てのヒンドゥー教徒が四住期を全うするわけではない。ちなみに仏教の開祖釈迦も当時のバラモン教の教えに従い、四住期に則った人生を送っている。即ち男子をもうけた後、29歳で釈迦族の王族の地位を捨て林間で修行をし、その後悟りを開いて布教の旅に出ている。
業と輪廻
[編集]- 業(カルマ)
- 業はサンスクリットで 本来は行為の意味。因果思想と結合し、業はその善悪に応じて果報を与え、死によっても失われず、輪廻に伴って、代々伝えられると考えられた。『ウパニシャッド』にもその思想は現れ、輪廻思想・業感縁起の基礎となる。宿業思想に発展し、一種の運命論となった。中国、日本の思想にも影響を与えている。
- 業はインドにおいて、古い時代から重要視された。ヴェーダ時代からウパニシャッド時代にかけて輪廻思想と結びついて展開し、紀元前10世紀から4世紀位までの間にしだいに固定化してきた。
- 輪廻(サンサーラ)
- ヒンドゥー教では、輪廻を教義の根幹とし、信心と業(カルマ、karman)によって次の輪廻(来世)の宿命が定まるとする。具体的には、カースト(ヴァルナ)の位階が定まるなどである。生き物は、行為を超越する段階に達しないかぎり、永遠に生まれ変わり、来世は前世の業(行為)によって決定される。これが、因果応報の法則(善因楽果・悪因苦果・自業自得)であり、輪廻の思想と結びついて高度に理論化されて一部のインド人の死生観・世界観を形成してきた。
カースト
[編集]身分(ヴァルナ)と職業(ジャーティ)
[編集]ヒンドゥー教の特徴のなかで、カースト制度の存在が大きい。カーストは歴史的に基本的な分類(ヴァルナ)が4つ成立し、その下に職業を世襲するジャーティ(生まれ・出生)と呼ばれる社会集団が形成されて、例えば「牛飼い」や「大工」や「床屋」などの職業が世襲されてきた[22]。結果としてインドには非常に多くのカーストが存在する。カーストは親から受け継がれるだけで、生まれた後にカーストを変えることはできない。ただし、現在の人生の結果によって次の生などの生で高いカーストに上がることができるという。現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きるべきだとされる。
基本的な4つのカースト(ヴァルナ)とカースト外の身分には、以下のものがある。
- ブラフミン(サンスクリットでブラーフマナ、音写して婆羅門・バラモン)
- クシャトリア(クシャトリヤ)
- ヴァイシャ
- シュードラ(スードラ)
- 古代では、一般的に人が忌避する職業のみにしか就くことしかできなかったが、時代の変遷とともに、中世頃には、ヴァイシャおよびシュードラの両ヴァルナと職業の関係に変化が生じ、ヴァイシャは商売を、シュードラは農牧業や手工業など生産に従事する広汎な「大衆」を指すようになった。「労働者」とも翻訳される。
- ヴァルナをもたない人びと
- ヴァルナに属さない人びと(アウト・カースト)もおりアチュートという。「不可触民(アンタッチャブル)」とも翻訳される。不可触賎民は「指定カースト」ともいわれる。1億人もの人々がアチュートとしてインド国内に暮らしている。彼ら自身は、自分たちのことを「ダリット(Dalit)」と呼ぶ。ダリットとは壊された民 (Broken People) という意味で、近年、ダリットの人権を求める動きが顕著となっている。カーストによる差別は1950年に憲法で禁止されている。
改宗
[編集]他宗教から改宗してヒンドゥー教徒になることは可能である。しかし、そこにはカースト制がある。カーストは親から受け継がれ、変えることができない。カーストは職業や身分を定める。他の宗教から改宗した場合は最下位のカーストであるシュードラにしか入ることができない。生まれ変わりがその基本的な考えとして強くあり、次の生まれ変わりで上のカーストに生まれるしか方法はないと経典には記されているのが特徴である。そのため改宗による移動を行えないという点がある。
ヒンドゥー教からイスラム教や仏教へと改宗する場合は、下位のカーストの者が差別から抜け出すためであることが多い。しかし、皮肉にもイスラム教徒や、パキスタン人の間にも若干のカースト意識は有ると言われている。カーストはヒンドゥーに限らず、イスラム教徒や仏教徒なども含めた全インド文化に共通する意識であるとも言える。
河川崇拝
[編集]ヒンドゥー教では河川崇拝が顕著であり、水を使った沐浴の儀式が重要視されている。特にガンジス川(ガンガー)は川の水そのものがシヴァ神の身体を伝って流れ出て来た聖水とされ、川自体も女神ガンガーであるため「母なる川ガンジス」として河川崇拝の中心となっている。ガンジス川添いには沐浴場(ガート)が設けられた聖地が点在する。ヒンドゥー教徒は、沐浴場に設けられた石の階段を下りて川の水に頭までつかって罪を清め、あるいは水を飲む。
菜食主義
[編集]ヒンドゥー教は不殺生を旨とし、そのため肉食を忌避するので菜食主義の人が多い。しかし、身分やしきたりによってその度合いが異なる。一般的な菜食は植物に加えて鶏卵も可とする人と、鶏卵を不可とする人がいる。また上位カースト階級には、収穫の際に地中の生物を殺す惧れのあるタマネギなどの根菜類を不可とする人もいる[24]。いずれの場合も牛乳および乳製品は良く食べられる。ところが宗派によっては祭りに際し犠牲獣を供することがある。その際、宗教儀式にしたがって神に捧げられたヤギなどの犠牲獣の肉を「お下がり」として食べる場合もある。しかし、どのような場合においても牛、特に瘤牛は神話にも出てくる聖獣で絶対に食べない。一方、同じ牛でも水牛は次々と姿を変える悪魔マヒシャの化身の一つであることから、コブ牛との扱いには差があり、家畜として使役され、その肉は輸出品にされている。
聖牛崇拝
[編集]ヒンドゥー社会において牛は崇拝の対象となっている。ヒンドゥー教徒でインド思想研究者のベンガル人クシティモハン・センは、民衆ヒンドゥー教における牛の神聖視の起源は、全くわからないと述べている[25]。神話にも牛が度々登場し、たとえばシヴァ神の乗り物はナンディンという牡牛である。実社会でも牡牛は移動、運搬、農耕に用いられ、牝牛は牛乳を供し、乾燥させた牛糞は貴重な燃料(牛糞ケーキ)となる。ただし聖別されているのは主として瘤牛であり、水牛は崇拝の対象とはならない[26]。
ヒンドゥー神学では、牛の神聖性は輪廻と結びついている。ヒンドゥー教の輪廻の考え方は上下87段の階梯構造となっているが、最上段の人間に輪廻する1つ前の段階が牛であり、牛を殺した者は輪廻の階梯の最下段からやり直さなくてはならなくなると言われる[27]。また、ヒンドゥー神学者は牛には3億3千万の神々が宿るとし、牛に仕え、牛に祈ることはその後21世代に渡ってニルヴァーナをもたらすという。
民衆の牛への崇拝はインド大反乱のきっかけとなったとも言われ、マハトマ・ガンディーが牛への帰依心を言及したことも、彼が民衆から聖人のような名声を得る理由の一つとなっている。
ヨーガ
[編集]ヒンドゥー教の修行としてヨーガが挙げられる。ヨーガは『心身の鍛錬によって肉体を制御し、精神を統一して人生究極の目的である「解脱」に至ろうとする伝統的宗教的行法のひとつである』[28]。ヨーガはヒンドゥー教の専有物ではなく、インドの諸宗教で実践されており、仏教に取り入れられたヨーガの行法は中国・日本の禅宗などの修行法にもつながっている。
ヴェーダの権威を受け入れ、ブラーフマナ(バラモン、司祭)階級の社会的階層の優位を容認する諸学派は「正統バラモン教」と認められ、その6系統のうちヨーガ学派は、心身を鍛錬しヨーガの修行で精神統一を図ることで、解脱に達することを説いた[29]。正統バラモン教の各学派も、その学派の教学を学ぶことと並行して、ヨーガの修行を行っている[30]。ヨーガ学派に代表される古典ヨーガの沈思瞑想による修行法は、4-5世紀頃に編纂されたといわれるヨーガ学派の教典である『ヨーガ・スートラ』にも書かれている。
また身体を鍛錬するヨーガは、13世紀に始まる「ハタ・ヨーガ」と呼ばれる流派がある。「現代ヨーガの父」と呼ばれるティルマライ・クリシュナマチャーリヤ(1888年 - 1989年)らによって、体操などの西洋身体文化をもとに作られたヨーガも、伝統的なハタ・ヨーガに倣って「ハタ・ヨーガ」と呼ばれるが、古典ヨーガとも元来のハタ・ヨーガとも関係は薄いという[31][32]。現在日本で行われている「ヨーガ教室」等の多くはこの流派に入る。
グル信仰
[編集]ヒンドゥー教で重要な位置を占めているのが、グル(サンスクリット語で「重いもの」「闇から光へ導くもの」「木星」「導師」という意味)である。グルはヨーガの修行を成就するにあたって、必要不可欠なものとされ、尊敬と崇拝を集めている。
女性
[編集]『マヌ法典』では、女性はどのヴァルナ(身分)であっても、入門式(ウパナヤナ)を受けてヴェーダを学ぶ男子として「再生」するドヴィジャ(二度生まれる者、再生族)ではなく、入門式を受けられず一度生まれるだけのエーカージャ(一生族)とされていたシュードラ(隷民)と同等視され、女性は再生族である夫と食事を共にすることはなく、祭祀を主催したり、マントラを唱えることも禁止されていた[33]。解脱を目指して修行するヨーガ行者も男性である。
少女、若い婦人、あるいは老女すらも、何事をも独立になすべきではない。たとい、家庭内においても。婦人は幼児期にはその父に、若いときはその夫に、夫が死亡したときには、その息子に従うべきである。婦人は独立性を得るべきではない。マントラ(真言)で浄化されて結婚する夫は、その妻に、妊娠に適する時期においても、適さない時期においても、現世においても、また来世においても常に幸福を与えるであろう。行状が悪く、あるいは放縦、あるいは美徳を欠いているとしても、貞節な妻は、夫を常に神のように尊敬すべきである。(『マヌの法典』)[34]
ヒンドゥー教の解脱や浄性に関する価値観において女性の位置づけは低く、一般的に無知で不浄で社会的にも霊的にも劣っていると考えられてきた[35]。とはいえ、女神信仰やシャクティ思想には女性性への強い崇拝が見られ、女性がいかなる信仰・思想でも例外なく劣位であったとも言い難い[35]。『リグ・ヴェーダ』では家庭で妻が神事を司るよう説かれ、『マハーバーラタ』では妻が神を祭るのに適しているとされた[36]。『ウパニシャッド』には、最も高度な討論で女性が主導権を握る例が複数あり、『マハーバーラタ』の王であり勇ましい女戦士チトラーンガダの物語など、ヒンドゥー教の聖典・古典が例外なく女性に対して抑圧的なわけではない[36]。
中世に女性は家事に専念することが求められるようになり、社会的地位はかなり悪化した[36]。これがイスラム教や中東地域の習慣の影響なのか、インドのヒンドゥー教社会内部の変化によるものなのか、明確にはわからない[36]。社会的地位にしろ、価値にしろ、近代インドにおいてヒンドゥー教とイスラム教の女性に差はなく、両者とも社会的にも経済的にも完全に男性に依存していた[37]。
伝統的な価値観において、妻や母としての女性の役割はしばしば称賛されたが、個人としての女性の社会的地位は極めて低かった[37]。夫との関係性以外に個性は全く認められず、夫の付属物として扱われ、従属を名誉として受け入れるよう教えられ、生まれ持った才能や望みを表現する手段はなかった[37]。ホールカル家当主としてインドール藩王国を統治した女性アヒリヤー・バーイー・ホールカルなど政治の場で活躍した個性的な女性もいたが、例外であり、全体を変えることはなかった[38][37]。上流階級の女性が屋外で働くことはタブーであり、北インドでは女性を隔離するパルダ制度の下で生活した[38][37]。農村の女性にはパルダ制度はなく、男性と共に野良仕事をしていたため、上流階級の女性より相対的に自由で、男性に対する地位も高かった[37]。
女性としての規範通りに生きれば、良き母良き娘として尊敬され、戦争や混乱の中でも、女性は乱暴されることもなく、丁重に扱われ、人混みの激しい場所に一人で出かけても危険はなかったという[38]。
ヒンドゥー教の立法者達は妻の地位をかなり制限しており、一般的に女性の財産所有権は否定されていた[36]。
後代の立法者達は、男性のみに高等教育を受ける権利を認めようとし[36]、ほとんどの女性に教育を受ける権利はなかった[37]。
19世紀に、イギリスの支配から脱しようと様々な社会運動が行われるようになると、西洋の平等や個人主義の理念の影響を受け、女性の地位改善も叫ばれるようになり、20世紀になると、急進的な民族運動の台頭でさらに運動は活発化した[39]。インドが独立すると、インド憲法で男女の完全な平等が保証された。男女の不平等は多くの形で残されているが、両性の平等に向けた運動が続けられている[39]。
結婚
[編集]幼児婚が全国的に見られ、7、8歳、時に3、4歳で結婚する女性もいた[38][37]。結婚は全て家長が決定し[38]、同じジャーティ(カースト)の内部で結婚する[40]。少年少女の自由な交流は禁じられていた[38]。近世インドは基本的に家父長制であり、家族を年長の男子が支配し、男系相続だった[38]。ケーララ地域に例外的に母系制がみられた[38]。
イギリスからの独立まで一夫多妻が許されていたが、裕福なもの以外は一夫一婦制が普通だった[38]。一妻多夫は厳禁とされていた[36][注 4]。
上流階級では、結婚には莫大な持参金(ダウリー)を持たせる習慣が広くあり、ラージプータナーやベンガル地域で特に行われていた[38]。
高カーストの女性は再婚が許されなかった[38][37]。一方、男性と共に野良仕事をする農村の女性は、多くが再婚の権利を持っていた[37]。寡婦の生活は悲惨なもので、禁欲的で厳しい規則に縛られ、現世の幸福を全て捨て、亡き夫の家族や自分の兄弟の家族に滅私奉公することが求められた[38][37]。夫が死亡した場合に、妻が夫の遺体と共に焼かれ殉死するサティーという儀礼があり、これはラージプータナー、ベンガル地方その他の北部インドを中心に行われていた[38]。
主な宗派
[編集]派生した宗教
[編集]ヒンドゥー教の一部と見なされることがあるもの
[編集]歴史
[編集]ヒンドゥー教はキリスト教やイスラム教のような、特定の開祖によって開かれたものではなく、インダス文明の時代からインド及びその周辺に居住する住民の信仰が受け継がれ時代に従って変化したものと考えられている。したがってヒンドゥー教がいつ始まったかについては見解が分かれている[41]。
インダス文明時代
[編集]インダス文明(紀元前2,300年 - 1,800年)のハラッパーから出土した印章には、現代のシヴァ神崇拝につながる結跏趺坐した行者の絵や、シヴァ神に豊穣を願うリンガ崇拝につながる直立した男性器を示す絵が見られる[42]。しかしインダス文字は解読できていないので、後代との明確な関係は不明である。
ヴェーダ
[編集]ヴェーダは「知る」という意味のサンスクリット語に由来し、宗教的知識を意味する[43]。さらには、その知識を集成した聖典類の総称となっている[43]。最も古い『リグ・ヴェーダ』は紀元前1,200年から1,000年頃にインド北西部のパンジャブ地方でアーリヤ人によって成立したと考えられている。ヴェーダの内容は下記のように分類されるが、狭義にはサンヒターのみを指す。
- サンヒター(本集)
- 『リグ・ヴェーダ』(賛歌)
- 『サーマ・ヴェーダ』(歌詠)
- 『ヤジュル・ヴェーダ』(祭詞)
- 『アタルヴァ・ヴェーダ』(呪詞)
- ブラーフマナ(祭儀書)
- アーラニヤカ(森林書)
- ウパニシャッド(奥義書)
リグ・ヴェーダには登場する神々の多くは、自然界の構成要素や諸現象、その背後にあると思われた神秘的な力を神格化したものである[44]。多数の神が登場するが、その中で重要なのは雷神インドラ(日本では帝釈天)、アグニ(火の神)、ヴァルナであった。現在では前述のヴィシュヌ神等に押されて影が薄い。
『リグ・ヴェーダ』に登場する神々は、各々が独立した個性を有しているわけではなく、属性や事績を共有することが多い。また狭義のヒンドゥー教で見られる人格神的な形態を取らず、神像や恒久的な寺院建造物の存在も確たる証拠は見つかっていない。バラモン教の祭祀は具体的な目的に対して行われ、バラモンが規定に則って空き地を清め、そこに目的に応じた特定の神を招き、供物や犠牲を祭壇の火炉に捧げる「供犠」が主体であった[45]。
現在のヒンドゥー哲学の基本となる「因果応報」「霊魂不滅」「輪廻」などの諸観念の淵源は、ウパニシャッドが完成した頃まで遡ることができる[46]。ウパニシャッドは紀元前800 - 500年頃にガンジス川流域で作られたインド古代哲学の総称である[47]。なおヴェーダに登場するヴィシュヴァカルマン神(造物や工巧の神)は、現在でも物造りの神様として、インドの各工場で祀られている。現在この神の祭りは毎年9月17日に行われている。
バラモン教からヒンドゥー教へ
[編集]バラモン教は、インドを支配するアーリア人の祭司階級バラモンによる祭儀を重要視する宗教を指す。紀元前5世紀頃に、バラモン教の祭儀重視に批判的な仏教とジャイナ教が成立した。
更にインド北西部は紀元前520年ころにはアケメネス朝ペルシア、前326年にはアレクサンドロス大王に支配された。その後仏教はアショーカ王(在位紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)の帰依などにより一時期バラモン教を凌ぐ隆盛を示した。この時期にヴェーダを基本とする宗教であるバラモン教は「支配者の宗教」からの変貌を迫られ、インド各地の先住民族の土着宗教を吸収・同化して形を変えながら民衆宗教へ変化していった。このため広義のヒンドゥー教にはバラモン教が含まれる。
ヒンドゥー教にはバラモン教の全てが含まれているが、ヒンドゥー教の成立に伴って、バラモン教では重要であったものがそうでなくなったり、その逆が起きたりなど大きく変化している。
紀元後4世紀頃、グプタ朝がガンジス川流域を支配した。グプタ朝はチャンドラグプタ2世(在位紀元385年 - 413年)に最盛期を迎えるが、この頃に今もヒンドゥー教徒に愛されている叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』がまとめられるなど、ヒンドゥー教の隆盛が始まった。
また東南アジアの「インド化」に伴い、5世紀頃から中国の史料にヒンドゥー教に関する記述が見られる[48]。以降、島嶼部では古マタラム王国やマジャパヒト王国など、大陸部では扶南国などで栄えた。アンコール朝では12世紀前半まではヒンドゥー教のシヴァ派とヴィシュヌ派が立国の思想となっていた[49]。
六派哲学
[編集]バラモン教は上記のように具体的な目的に対して神に「供犠」を捧げる、いわば「ギヴ・アンド・テイク」の宗教であったのに対し、ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神のような至高の神への絶対的帰依(「バクティ」と呼ぶ)に基づく信仰態度が多くの大衆に受け入れられ始めた。この時期に六派哲学と呼ばれるインドの古典哲学が確立し、互いに論争を繰り広げた[50]。インドの学問のおよそ全般は、輪廻からの解脱を究極の目的とし、宗教的色彩が濃く、固有の思想体系を伝える哲学学派も、宗教の宗派とほとんど区別することができない[51]。
- ヴァイシェーシカ学派 - 多数の実在を認め、物質を無数の原子からなるものと規定した。
- ニヤーヤ学派 - 実在を認めつつ、主宰神「シヴァ神」の証明を試みた。
- サーンキヤ学派 - 世界は精神と物質から成るとした二元論を展開した。純粋精神が物質から離れた時に「解脱」が達成されるとし、最高神の存在を認めない。
- ヨーガ学派 - 教説のかなりの部分をサーンキヤ学派と共有するが、最高神の存在を信じる。「解脱」の手段としてのヨーガの行法を発達させた。
- ミーマーンサー学派 - ヴェーダの「供犠」を受け継ぎ、正しい祭祀が(神を通さず)直接果報をもたらすものとした。
- ヴェーダーンタ学派 - 根本聖典『ブラフマ・スートラ』に則り梵我一如を追求した。この学派がその後のヒンドゥー教の正統派の地位を継続している。
不二一元論とバクティ
[編集]ヴェーダーンタ学派の思想の中で最も有名なものに不二一元論がある。これは、精神的実在であるブラフマン(梵)またはアートマン(我)以外に実在する物は無い、言い換えれば「今目の前にある世界は幻影に過ぎない」という思想。この思想を突き詰めてゆくと、シャンカラ(700年 - 750年頃)の説くように「ブラフマンは人格や属性を持たないもの」となり、無神論的一元論に達する。この教義は現在でもヒンドゥー教の正統派としてインドの5箇所の僧院で代々「シャンカラ・アーチャーリヤ」の名を継承する学匠によって不二一元論の法灯が維持され続けている。シャンカラ後の不二一元論は、11世紀の神学者ラーマーヌジャによる被制限者不二一元論、13世紀の神学者マドヴァの二元論へと発展していった[52]。現代インドのパンディット(伝統的スタイルのバラモン学者)の大部分はヴェーダーンタ学徒で、その八割以上はシャンカラ派に属していると言われる[53]。ヴェーダーンタ哲学がその2000年以上の歴史において、インドの宗教、文化、社会、政治等に及ぼした影響は非常に大きい[53]。
5世紀〜10世紀の南インドでは「至高の神への絶対的帰依」「自己犠牲をいとわない神への奉仕」を信仰の柱とするバクティと呼ばれる信仰形態が顕在化し始めた。このバクティに関して、12世紀から13世紀にかけてヴェーダーンタ学派の学匠達によって「ヴィシュヌ神」を崇拝する信仰が理論化された。バクティーは一般庶民の信仰形態として現在まで広く行われている[54]。不二一元論とバクティは正反対とも言える形態だが、現在のヒンドゥー教の中では問題なく同居している。
その後のヒンドゥー教
[編集]その後北インドではイスラム教徒の征服王朝が交代する時代に入る。タージ・マハルなど北インドの著名な文化財はイスラム教様式である。しかし庶民や南インドの王朝はヒンドゥー教を信奉した。ヒンドゥー教では ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァが3大神とされた。各神は多様な側面を持ち、その性格は一様ではない。その中でヴィシュヌやシヴァは民間宗教の神を取り込んでゆき、多様な神話を通じて多くの信徒を有している。ヒンドゥー教の複雑さ・分かりにくさの一例として、たくさんの神々を崇める多神教としての姿、シヴァまたはヴィシュヌを至高の神とする一神教的な姿、教理を哲学的に極めた不二一元論のような無神教としての姿のすべてを内在している点が挙げられる。
インドがイギリスの植民地となって久しい19世紀に、ベンガル州を中心に知的エリート層によってキリスト教とヒンドゥー教の知的交流が盛んになり、西欧的な合理主義に基づいて、インドの近代化とヒンドゥー教の復興・改革を目指すヒンドゥー教改革運動が起こった。インドの歴史的個性・古典・文化のすばらしさが説かれ、ヒンドゥー教の近代的解釈を行って信仰態度を確立し、植民地時代のインドで民衆に自信と勇気を与え、「インド」を認識し、ナショナリズムを盛り上げた[55][56]。こうした現代ヒンドゥー教の改革運動を担った人々は、多くが上部カースト出身のインド人だったが、神智学協会のアニー・ベサントのような外国人もいた[57]。
のちに「ヒンドゥー・ルネサンス」「ベンガル・ルネッサンス」と呼ばれる改革の創始者は、「近代インドの父」とも呼ばれるラーム・モーハン・ローイである[52]。バラモン階級出身でウパニシャッドの影響を受けていたローイは、ユニテリアン主義の影響も受け、神は超越的な存在であり聖像などで表現し得ないものと信じ、宗教は合理的で倫理的な体系であるべきであり、道徳法は理性によって理解されるべきと考えた[52]。ローイの兄の妻はサティー(寡婦殉死)で死亡しており、彼はこれに大きなショックを受けたと言われ[58]、サティーや幼児婚といったヒンドゥー教の慣習を非道徳な儀式として非難し、1829年のサティー禁止法の発布に影響を与えた。また、聖像礼拝やカルマ、輪廻といった概念を迷信として、キリスト教の改革運動をモデルとしたブラフモ・サマージ(ブラフモ協会)という宗教団体を設立した。
ローイは訪英中に客死してしまうが、その仕事はデヴェンドラナート・タゴールやケーシャブ・チャンドラ・セーンに引き継がれた。プラーナやタントラを否定するブラフモ・サマージの思想は知識層の関心を集めたが、大衆レベルではまったく人気が無かった[52]。
1875年にローイの影響を受けたダヤーナンダ・サラスワティーは、ブラフモ・サマージに内在する民族主義を発展させたアーリヤ・サマージ(アーリヤ協会)を発足させた。アーリヤ・サマージはヒンドゥー教を純粋なヴェーダの形態に戻すべきと主張し、ヴェーダ文化を振興させる活動を通じてインドの国民意識を喚起した[52]。アーリヤ・サマージは教育面での貢献が大きく、インドの初代首相ジャワハルラール・ネルーは、「抑圧された階級の地位をあげ、女子の状態を改良し、少年、少女の教育のためにアーリヤ・サマージは多くの仕事をした」と評価している[56]。
また、ロシア人オカルティストのヘレナ・P・ブラヴァツキーらによる神智学協会は、本拠地をアメリカからインドに移し、ヒンドゥー教や仏教思想を取り入れて、転生(輪廻)やカルマ(業)を強調した神秘思想を説いた[59]。インドには聖者とされた人々が数多あるが、その内にはブラヴァッツキーに始まる近代神智学(接神論)の者もおり、彼らは外国人ながらインド独立運動に関わり、2代目会長のアニー・ベサントは国民会議の年次大会議長になる等、インド・ナショナリズムの運動に大きな影響を及ぼした[59]。なお、ヴィヴェーカーナンダは、神智学協会を疑似ヒンドゥー教であるとしており、真面目な宗教運動であったか疑問視する声もある[59]。
一方で、バクティ運動の直接の影響を受け、ローイらのように西洋式教育を受けていない田舎のバラモンであったラーマクリシュナは、聖典に興味を持つこともなく、純粋なバクティを説き、複雑な神学体系なしに、知性ではなく純粋な信仰を捧げることで神に近づこうとした[60]。彼の信仰はカーリー女神へのバクティを中核とし、タントラ的な性格を持つが[61]、イスラム神秘主義やキリスト教の修行も実践して様々な神を見たとされ、易々と神秘体験に入り得ることで注目を集め、『世界の全ての宗教は神に至る道』[62]と説いた。その神秘体験と、子供のような特異な人格で多くの人を魅了し、彼の影響下でブラフモ・サマージの流れとも異なるヒンドゥー教改革運動が生じた[60]。弟子のヴィヴェーカーナンダは、ヒンドゥー教は普遍宗教であると主張して、各々の宗教の寛容を強調し、神性の本質は各個人の内にあり、ヒンドゥー教の実践を通じて理解できると主張し、宗教統一理論をもとにヒンドゥー教を再構築した。ヴィヴェーカーナンダは、1893年にシカゴで開かれた万国宗教会議に参加してヒンドゥー教を世界宗教のひとつとして認めさせることに貢献し[52]、1895年にはラーマクリシュナ僧院とラーマクリシュナ・ミッションを創設し、世界にアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)を根幹とするネオ・ヴェーダーンタを布教し、インド内で社会奉仕活動を行った。
教典
[編集]古代のヒンドゥー教の聖典はサンスクリット語で書かれている。そしてこれらはシュルティ(天啓)とスムリティ(聖伝)の2種類に大別される。ヒンドゥー教の聖典は何世紀にもわたり口承にて編纂され、記憶され、そして世代を超えて伝承され、後に文字に起こされた[64][65]。何世紀にもわたりリシ(聖仙)たちは教義を磨き上げ、それをシュルティとスムリティに展開した。さらにはヒンドゥー哲学の6学派は認識論、形而上の理論をシャーストラと呼ばれる書物にまとめた。
シュルティ(聞かれた物の意[66])は通常ヴェーダのことを指す。ヴェーダはヒンドゥー教の聖典の中でも最も早い時期に記録されたもので、古代のリシ(聖仙)たちに明かされた永遠の真実が記されていると考えられている[67]。ヴェーダには『リグ・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ』の4つが存在し、それぞれのヴェーダはさらにサンヒター(賛歌、祈り)、アーラニヤカ(儀式、祭祀について)、ブラーフマナ(儀式、祭祀の解釈)、ウパニシャッド(瞑想、哲学について)の4つの部門に分けられる[68][69][70]。最初の2つ(サンヒター、アーラニヤカ)はカルマカーンダ(Karmakāṇḍa、施祭部門)とよばれ、残りの2つがジュニャーナカーンダ(Jñānakāṇḍa、哲学的、宗教的思索部門)と呼ばれる[71][72][73][74][75]。
ウパニシャッドはヒンドゥー哲学の基礎であり[76][77]、シュルティの中でも特に優れた聖書であるとされ、その基本理念は後の時代のヒンドゥー教哲学や信仰にも継続的に影響を与え続けている[76][78]。サルヴパッリー・ラーダークリシュナンは、ウパニシャッドは歴史に登場して以来ずっと支配的な役割を果たしていると語っている[79]。ヒンドゥー教には108のムクティカー・ウパニシャッドが存在し、学者よって幅があるがそのうちの10から13は特に重要なものとしてムキャ・ウパニシャッドと呼ばれる[80][81]。
最も重要なスムリティ(記憶されたものの意)はヒンドゥー叙事詩とプラーナ文献である。具体的には『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』がヒンドゥー叙事詩であり、『マハーバーラタ』にその一部として含まれている『バガヴァッド・ギーター』は最も一般的なヒンドゥー教の聖典の一つであり[82]、ヒンドゥー教徒の信仰生活を実質的に規定してきた[83]。『バガヴァッド・ギーター』(「神の歌」の意)は時にウパニシャッドとみなされギートパニシャッド(Gitopanishad)と呼ばれる。そのためシュルティに数えられることもある[84]。また『ラーマーヤナ』はラーム・リーラー、『マハーバーラタ』はラース・リーラーという名で歌舞劇にされており、各地で祝祭に合わせて上演される伝統がある[85]。一方のプラーナ文献はおよそ西暦300年あたりから編纂され始め[86]、広範な神話を含む。これらはヒンドゥー教の共通のテーマを、生き生きとした物語を通して人々に伝えるという役割を担い、布教の中心となっている。またヨーガについて記された古典『ヨーガ・スートラ』は20世紀になって再評価されている[87]。
19世紀のヒンドゥー教現代主義者らはヒンドゥー教のアーリア人起原の要素を再評価し、タントリズム(密教)の影響を受けたヒンドゥー教を純化しようという試みのなかで[88]埋もれていたヴェーダの要素を強調した。たとえばヴィヴェーカーナンダは、たとえそれが古代のリシ(聖仙)たちに明かされたものでないにしても、ヴェーダは精神世界の法律であるという立場をとった[89][90]。タントリズムでは「アーガマ (ヒンドゥー教)」という語が彼らにとって権威のある聖典全体を指す言葉であり、また同時にシヴァがシャクティに語った教えを意味する[91]。一方で「ニガマ」(Nigama)という語はヴェーダを意味し、同時にシャクティがシヴァに語った教えを意味する[91]。アーガマ派(聖典シヴァ派)ではアーガマをヴェーダと同等なものとして同様に重視している[92][93]。
聖地
[編集]ガンジス川添いには沐浴場(ガート)が設けられた聖地がある(以下は上流側から順に記載)。
- ガンゴートリー
- バドリーナート
- リシケーシュ(リシケシ、リシュケシュ) - 沐浴場のほかヨガの道場(アーシュラム)も多く存在し、ビートルズのメンバーも一時滞在した[94]。
- ハリドワール(ハルドワール)
- アラーハーバード
- ワーラーナシー(バラナシ、バナーラス、ベナレス) - 北インド中央、ガンジス川左岸に位置するガンジス川最大の沐浴場。
4大巡礼地
- プリー - インド東部、ベンガル湾沿いに位置するヴィシュヌ神の町。ジャガンナート寺院がある。
- バドリーナート・ケーダールナート - 北インドにある。
- ドワールカー(ドワーラカー) - インド西部にある。
- ラーメーシュワラム - 南インドにある。
他には、神話の舞台や由緒ある寺などが聖地とされている。
- アヨーディヤー - 『ラーマーヤナ』の主人公ラーマ王子の故郷。
- ヤムノートリー
- マトゥラー - ヴィシュヌ神の化身クリシュナの生誕地。
- カーンチープラム - インド南部の聖地、7世紀頃から栄えたため、古い寺院が多く残っている。
- ウッジャイン
遺跡
[編集]- プランバナン寺院群 - インドネシアのジャワ島にあり、世界文化遺産の一つ。プランバナン寺院には、かつて約240もの祠堂が建てられていたそう。その後、地震やムラピ山の噴火などでそのほとんどが崩壊。現在は、大小合わせて18の祠堂が修復、再建されている。中心にそびえ立つのはヒンドゥー教の3大主神、ブラフマ(創造の神)、ヴィシュヌ(維持の神)、シヴァ(破壊の神)の3つの祠堂。[95]
- アンコール遺跡 - カンボジアにあり、世界文化遺産の一つ。
祭礼
[編集]ヒンドゥー教の祭りはウツァヴ(梵語: Utsava、「高く上げること」の意)と呼ばれ、個人と社会生活をダルマ(法)と結び付ける儀式とされている[96][97]。年間に多くの祭りが開催され、日取りはヒンドゥー暦(太陰太陽暦)に従って定められる。これらは満月(ホーリー)か新月(ディワーリー)、または季節の変わり目を起点にして開催されるものが多くみられる[98]。地域ごとに限定され彼らの伝統を祝う性質の祭りも存在するが、一方でホーリー祭や、ディワーリー祭は汎ヒンドゥー教的性格を持ち、国を越えたヒンドゥー教文化圏全土で祝われる[98][99]。「色祭り」として知られるホーリー祭は、ヒンドゥー教の春の祭典。祭りの期間中、参加者たちは音楽に合わせて踊り、お互いに色粉を投げつけ合う。[100]
ヒンドゥー教の祭りは通常宗教的なテーマや、例えばラクシャー・バンダンのような家族の絆を祝うといった側面を持っている[97][101]。同じ祭りでも宗派によって違うストーリーを背景に持っている場合もあり、また、地域ごとのテーマ、伝統農業や地域の伝統芸能、家族の集まりや、 プージャ (お祈り)、祝宴を取り込んでいる場合もある[96][102]。
主な祭りを以下に紹介する。
- ホーリー祭: 春の祭り、ヒンドゥー教3大祭りの一つ。
- ラクシャー・バンダン: 女性が兄弟の右腕にお守り紐を巻きつけて加護を願う祭り。
- ガネーシャ祭: 西インドで開催される象頭の神ガネーシャの祭。各家庭では、毎年新しく神像を購入して祭った後、像を川に流す。ムンバイなどの都会では巨大な神像が町を練り歩く[103]
- ダシェラ祭: ヒンドゥー教3大祭りの一つ。ラーマ神が悪魔を倒したことを祝う。ガンジス川流域では悪魔を倒すドゥルガー女神像を祭る「ドゥルガー・プージャ」が盛大に行われる(左写真参照)。
- ディワーリー祭: ヒンドゥー教3大祭りのひとつ。富と幸運の女神ラクシュミーを祭る。家業の繁栄を願い家の戸口に灯明を飾って祝う。ダシェラ祭やディワーリー祭には都会に働きに出ている人も実家に帰る事が多い。
- マハー・シヴァラートリー: シヴァ神の祭り。シヴァとパールヴァティが結婚した日とされている。
- オナム: ケーララ州のお祭り。マハーバリを祝う。
- ナヴラトリ: ドゥルガーのお祭り。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ キリスト教徒、シク教徒、パールシー教徒、ジャイナ教徒、仏教徒など。少数派といっても一千万人以上、少なくとも数百万人の信教徒がいる。
- ^ as a "religion", "set of religious beliefs and practices", "religious tradition", "a way of life" (Sharma 2003, pp. 12–13) etc. For a discussion on the topic, see:"Establishing the boundaries" in Flood 2008, pp. 1–17
- ^ ウィル・スイートマン(Will Sweetman)は以下を例として挙げている。
- Wilhelm Halbfass (1988), India and Europe
- IXth European Conference on Modern Asian Studies in Heidelberg (1989), Hinduism Reconsidered
- Ronald Inden, Imagining India
- Carol Breckenridge and Peter van der Veer, Orientalism and the Postcolonial Predicament
- Vasudha Dalmia and Heinrich von Stietencron, Representing Hinduism
- S.N. Balagangadhara, The Heathen in his Blindness...
- Thomas Trautmann, Aryans and British India
- Richard King (1989), Orientalism and religion
- ^ 文献の上では、『マハーバーラタ』に5人の夫を持ったドラウパディー王女の物語がある[36]。
出典
[編集]- ^ a b Julius J. Lipner (2009), Hindus:Their Religious Beliefs and Practices, 2nd Edition, Routledge, ISBN 978-0-415-45677-7, page 8;Quote:"(...) one need not be religious in the minimal sense described to be accepted as a Hindu by Hindus, or describe oneself perfectly validly as Hindu. One may be polytheistic or monotheistic, monistic or pantheistic, even an agnostic, humanist or atheist, and still be considered a Hindu."
- ^ a b c 高島 1994.
- ^ a b c d e f g h i j 川崎 1997, pp. 12–13.
- ^ 『インドを知る事典』22頁
- ^ 現在の人口や国別統計は「Hinduism by country」を参照
- ^ 『インドを知る事典』25頁
- ^ ルヌー, ルイ (1991), 『インド教』, 渡辺照宏・美田稔訳, 白水社, ISBN 4560057230
- ^ 『インドを知る事典』23頁
- ^ 『インドを知る事典』40頁
- ^ 『インドを知る事典』26頁
- ^ Lester Kurtz (Ed.), Encyclopedia of Violence, Peace and Conflict, ISBN 978-0123695031, Academic Press, 2008
- ^ MK Gandhi, The Essence of Hinduism, Editor:VB Kher, Navajivan Publishing, see page 3;According to Gandhi, "a man may not believe in God and still call himself a Hindu."
- ^ Flood 1996, p. 6.
- ^ Knott, Kim (1998). Hinduism:A Very Short Introduction. Oxford: Oxford University press. p. 117. ISBN 978-0-19-285387-5
- ^ Sharma 2003, p. 12-13.
- ^ Vivekjivandas 2010, p. 1.
- ^ Sweetman 2004;King 1999
- ^ Sweetman 2004.
- ^ Nussbaum 2009.
- ^ 森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』192頁
- ^ 森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』227頁
- ^ 『神話と芸能のインド』66頁
- ^ 森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』124頁
- ^ 森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』103頁
- ^ セーン 1999, p. 188.
- ^ 森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』165-182頁
- ^ マーヴィン・ハリス『食と文化の謎:Good to eatの人類学』(岩波書店 1988年、ISBN 4000026550)pp.49-74.
- ^ 森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』288頁
- ^ 川崎 1997, p. 116.
- ^ 川崎 1997, pp. 116–117.
- ^ 伊藤雅之「現代ヨーガの系譜:スピリチュアリティ文化との融合に着目して」『宗教研究』84(4)、日本宗教学会、2011年3月30日、417-418頁、NAID 110008514008。
- ^ マーク・シングルトン『ヨガ・ボディ - ポーズ練習の起源』
- ^ 森本 2003, pp. 191–192.
- ^ 前田 1982, p. 57.
- ^ a b パートリッジ 編 2009, p. 271.
- ^ a b c d e f g h セーン 1999, pp. 182–183.
- ^ a b c d e f g h i j k チャンドラ 2001, pp. 236–237.
- ^ a b c d e f g h i j k l m チャンドラ 2001, pp. 42–43.
- ^ a b チャンドラ 2001, pp. 237–238.
- ^ 前田 1982, pp. 58–59.
- ^ 『インドを知る事典』27頁
- ^ 森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』73頁
- ^ a b 川崎 1997, p. 29.
- ^ 川崎 1997, pp. 30–31.
- ^ 『インドを知る事典』34頁
- ^ 『インドを知る事典』36頁
- ^ 『インドを知る事典』30頁
- ^ 青山亨「ベンガル湾を渡った古典インド文明」『南アジア研究』2010年 2010巻 22号 p.261-276, doi:10.11384/jjasas.2010.261
- ^ 石澤良昭「アンコール王朝史の新局面」『東南アジア -歴史と文化-』2002年 2002巻 31号 p.3-26, doi:10.5512/sea.2002.3
- ^ 『インドを知る事典』41頁
- ^ 川崎 1997, p. 98.
- ^ a b c d e f ギャヴィン・フラッド ジョン・ボウカー(編)「インドの諸宗教とヒンドゥー教」松村一男監訳『ヴィジュアル版 ケンブリッジ 世界宗教百科』(原書房 2006年 ISBN 4562040343 )pp.45,50-51.
- ^ a b 前田 1967, p. 250.
- ^ 『インドを知る事典』43-45頁
- ^ 斎藤 1982, p. 32.
- ^ a b 斎藤 1982, p. 40.
- ^ 斎藤 1982, pp. 31–32.
- ^ 斎藤 1982, p. 43.
- ^ a b c 増原 1967, pp. 340–341.
- ^ a b セーン 1999, pp. 174–175.
- ^ 臼田 2000, pp. 207–208.
- ^ 森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』375頁
- ^ Rigveda is not only the oldest among the vedas, but is one of the earliest Indo-European texts.
- ^ Flood, Gavin, ed. (2003), The Blackwell Companion to Hinduism, Blackwell Publishing Ltd., ISBN 1-4051-3251-5, see Michael Witzel quote on pages 68-69
- ^ Sargeant & Chapple 1984, p. 3
- ^ Rinehart 2004, p. 68.
- ^ Flood 2008, p. 4.
- ^ Gavin Flood (1996), An Introduction to Hinduism, Cambridge University Press, ISBN 978-0521438780, pages 35-39
- ^ A Bhattacharya (2006), Hindu Dharma:Introduction to Scriptures and Theology, ISBN 978-0595384556, pages 8-14;George M. Williams (2003), Handbook of Hindu Mythology, Oxford University Press, ISBN 978-0195332612, page 285
- ^ Jan Gonda (1975), Vedic Literature:(Saṃhitās and Brāhmaṇas), Otto Harrassowitz Verlag, ISBN 978-3447016032
- ^ Edward Roer (Translator), Shankara's Introduction - Google ブックス to Brihad Aranyaka Upanishad at pages 1-5;Quote - "The Vedas are divided in two parts, the first is the karma-kanda, the ceremonial part, also (called) purva-kanda, and treats on ceremonies;the second part is the jnana kanda, the part which contains knowledge, also named uttara-kanda or posterior part, and unfolds the knowledge of Brahma or the universal soul."
- ^ “Swami Shivananda's mission”. 25 June 2007閲覧。
- ^ Werner 1994, p. 166
- ^ Monier-Williams 1974, pp. 25–41
- ^ Olivelle, Patrick (1998), Upaniṣads, Oxford University Press, ISBN 0-19-282292-6, Introduction chapter
- ^ a b Wendy Doniger (1990), Textual Sources for the Study of Hinduism, 1st Edition, University of Chicago Press, ISBN 978-0226618470, pages 2-3;Quote: "The Upanishads supply the basis of later Hindu philosophy;they alone of the Vedic corpus are widely known and quoted by most well-educated Hindus, and their central ideas have also become a part of the spiritual arsenal of rank-and-file Hindus."
- ^ Wiman Dissanayake (1993), Self as Body in Asian Theory and Practice (Editors:Thomas P. Kasulis et al), State University of New York Press, ISBN 978-0791410806, page 39;Quote:"The Upanishads form the foundations of Hindu philosophical thought and the central theme of the Upanishads is the identity of Atman and Brahman, or the inner self and the cosmic self.";
Michael McDowell and Nathan Brown (2009), World Religions, Penguin, ISBN 978-1592578467, pages 208-210 - ^ Patrick Olivelle (2014), The Early Upanisads, Oxford University Press, ISBN 978-0195352429, page 3;Quote:"Even though theoretically the whole of vedic corpus is accepted as revealed truth [shruti], in reality it is the Upanishads that have continued to influence the life and thought of the various religious traditions that we have come to call Hindu. Upanishads are the scriptures par excellence of Hinduism".
- ^ S Radhakrishnan, The Principal Upanishads George Allen & Co., 1951, pages 17-19, Reprinted as ISBN 978-8172231248
- ^ Patrick Olivelle (1998), Upaniṣhads. Oxford University Press, ISBN 978-0199540259, see Introduction
- ^ Thirteen Principal Upanishads, Robert Hume (Translator)
- ^ Sarvopaniṣado gāvo, etc. (Gītā Māhātmya 6). Gītā Dhyānam, cited in Introduction to Bhagavad-gītā As It Is. Archived 1 March 2014 at the Wayback Machine.
- ^ 森本達雄『ヒンドゥー教-インドの聖と俗』308頁
- ^ Thomas B. Coburn, Scripture" in India:Towards a Typology of the Word in Hindu Life, Journal of the American Academy of Religion, Vol. 52, No. 3 (September, 1984), pp. 435-459
- ^ 『神話と芸能のインド』 91頁。
- ^ Lorenzen 1999, p. 655.
- ^ Michelis 2005.
- ^ Lorenzen 2002, p. 33.
- ^ Vivekananda 1987, Vol I, pp. 6–7
- ^ Harshananda 1989
- ^ a b Jones & Ryan 2006, p. 13.
- ^ Mariasusai Dhavamony (1999), Hindu Spirituality, Gregorian University and Biblical Press, ISBN 978-8876528187, pages 31-34 with footnotes
- ^ David Smith (1996), The Dance of Siva:Religion, Art and Poetry in South India, Cambridge University Press, ISBN 978-0521482349, page 116
- ^ 『インド黄金街道』71頁
- ^ ヒンドゥー教の理解が深まる!ジョグジャカルタの世界遺産「プランバナン寺院」エキサイト
- ^ a b Sandra Robinson (2007), Encyclopedia of Hinduism (Editors:Denise Cush et al), Routledge, ISBN 978-0700712670, pages 908-912
- ^ a b Karen-Marie Yust (2005), Sacred Celebrations, in Nurturing Child and Adolescent Spirituality (Editor:Karen-Marie Yust), Rowman & Littlefield, ISBN 978-0742544635, page 234, see also Chapter 18
- ^ a b Sandra Robinson (2007), Encyclopedia of Hinduism (Editors:Denise Cush et al), Routledge, ISBN 978-0700712670, page 907
- ^ Lynn Foulston and Stuart Abbott (2009), Hindu Goddesses:Beliefs and Practices, Sussex Academic Press, ISBN 978-1902210438, page 155
- ^ 勇敢な参加者
- ^ Dale Holberg et al (2000), Festival calendar of India, in Students' Britannica India, Volume 2, Encyclopedia Britannica (India), ISBN 978-0-85229-760-5, page 120, Quote: "Raksha Bandhan (also called Rakhi), when girls and women tie a rakhi (a symbolic thread) on their brothers' wrists and pray for their prosperity, happiness and goodwill. The brothers, in turn, give their sisters a token gift and promise protection."
- ^ Jessica Frazier (2015), The Bloomsbury Companion to Hindu Studies, Bloomsbury Academic, ISBN 978-1472511515, pages 255, 271-273
- ^ 『神話と芸能のインド』133頁
参考文献
[編集]- マーク・シングルトン『ヨガ・ボディ - ポーズ練習の起源』喜多千草訳、大隅書店、2014年、ISBN 978-4-905328-06-3
- クリストファー・パートリッジ 編『現代世界宗教事典—現代の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ』井上順孝 監訳、井上順孝・井上まどか・冨澤かな・宮坂清 訳、悠書館、2009年。
- 鈴木正崇編『神話と芸能のインド』山川出版社 異文化理解講座9、2008年、ISBN 978-4-634-47454-3
- 山下博司・岡光信子『インドを知る事典』東京堂出版、2007年。『新版 インドを知る事典』東京堂出版、2016年、ISBN 978-4-490-10879-8
- 立川武蔵『ヒンドゥー教巡礼』集英社新書、2005年、ISBN 4-08-720281-X
- 山下博司『ヒンドゥー教 インドという〈謎〉 講談社選書メチエ、2004年、ISBN 4-06-258299-6
- 森本達雄『ヒンドゥー教―インドの聖と俗』中央公論新社〈中公新書〉、2003年。ISBN 4-12-101707-2。
- 旅行人編集室『インド黄金街道』株式会社旅行人、2002年、ISBN 4-947702-42-7
- ビパン・チャンドラ『近代インドの歴史』山川出版社、2001年。
- 臼田雅之、島岩・坂田貞二(編)、2000、「ラーマクリシュナと近代インド」、『聖者たちのインド』、春秋社
- クシティ・モーハン・セーン『ヒンドゥー教 - インド三〇〇〇年の生き方・考え方』中川正生 訳、講談社現代新書、1999年。ISBN 4-06-149469-4。
- 川崎信定『インドの思想』放送大学教育振興会、1997年。ISBN 4-595-21344-1。
- 高島淳 著「シヴァ信仰の確立 -シャイヴァ・シッダーンタと南インド-」、辛島昇 編『ドラヴィダの世界 - インド入門II』東京大学出版会、1994年 。
- 長野泰彦・井狩弥介編『インド=複合文化の構造 法蔵館、1993年、ISBN 4-8318-3250-2
- ジョージ・ミッチェル『ヒンドゥ教の建築 - ヒンドゥ寺院の意味と形態』神谷武夫訳、鹿島出版会、1993年、ISBN 4-306-04308-8
- 早島鏡正、高崎直道、原実、前田専学、1982、「第5章 英領インドにおける思想運動」、『インド思想史』、東京大学出版会
- 斎藤昭俊『近代インドの宗教運動』吉川弘文館、1982年。
- 宇野精一、中村元、玉城康四郎(編)、1967、『講座 東洋思想 1 インド思想』、東京大学出版会
- Charles Coleman "The Mythology of the Hindus" Parbury, Allen, 1832 (インド他、日本を含む周辺国におけるヒンドゥー教神話について)
- Flood, Gavin D. (1996), An Introduction to Hinduism, Cambridge University Press
- Sharma, Arvind (2003), The Study of Hinduism, University of South Carolina Press
- Sweetman, Will (2004), “The prehistory of Orientalism:Colonialism and the Textual Basis for Bartholomaus Ziegenbalg's Account of Hinduism”, New Zealand Journal of Asian Studies 6 (2): 12–38
- Nussbaum, Martha C. (2009). The Clash Within:Democracy, Religious Violence, and India's Future. Harvard University Press. ISBN 978-0-674-03059-6 25 May 2013閲覧。
- Vivekjivandas (2010), Hinduism:An Introduction - Part 1, Ahmedabad: Swaminarayan Aksharpith, ISBN 978-81-7526-433-5
- King, Richard (1999), Orientalism and Religion:Post-Colonial Theory, India and "The Mystic East", Routledge
- Monier-Williams, Monier (1974), Brahmanism and Hinduism:Or, Religious Thought and Life in India, as Based on the Veda and Other Sacred Books of the Hindus, Elibron Classics, Adamant Media Corporation, ISBN 1-4212-6531-1 8 July 2007閲覧。
- Lorenzen, David N. (1999), “Who Invented Hinduism?”, Comparative Studies in Society and History 41 (4): 630–659
- Lorenzen, David N. (2002), “Early Evidence for Tantric Religion”, The Roots of Tantra, State University of New York Press, ISBN 0-7914-5306-5
- Vivekananda, Swami (1987), Complete Works of Swami Vivekananda, Calcutta: Advaita Ashrama, ISBN 81-85301-75-1
- Harshananda, Swami (1989), A Bird's Eye View of the Vedas, in "Holy Scriptures:A Symposium on the Great Scriptures of the World" (2nd ed.), Mylapore: Sri Ramakrishna Math, ISBN 81-7120-121-0
- Jones, Constance; Ryan, James D. (2006), Encyclopedia of Hinduism, Infobase Publishing
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ヒンドゥ建築 (日本語)
- 『ヒンドゥー教』 - コトバンク