ごめんなさい

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ごめんなさいとは、世界中に謝罪の言葉として広まっている単語である。元々は宮本武蔵(およびその父・無二斎)に対する尊称であったのだが、時代の移り変わりとともに伊達男の伊達や頑固一徹の一徹と同様に個人名が謝罪という全く意味をもって広まった単語なのである。このような経緯があるためにオリジナルの概念を作りだした日本人が一番ごめんなさいを巧みに使用することが出来るのである。

語源[編集]

元々ごめんなさいとは本来御免無二斎と書き、唯一無二の高名な免状を授与された人物という意味である。本来は宮本武蔵の父・無二斎の尊称であったが、その幻影に苦しめられた息子・武蔵のトラウマの象徴として意味が転化したものである。

宮本無二斎について[編集]

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俺の名前を言ってみろ
口癖 について、宮本無二斎

宮本無二斎については諸説あり、子・武蔵とは確執があったこともあってきちんとした情報には乏しい。

戦国時代中期頃に美作国の宮本村(現在の岡山県)で総合格闘術、特に十手の使い手として名を馳せた武芸者・宮本某として文書に登場している。その名を聞きつけた将軍足利義昭に請われて京都に出向き、将軍家師範・吉岡憲法との御前試合に勝利して天下無双の称号を与えられている。そしてこれ以降自らの名を誰も並ぶ者がいないという意味で宮本無二斎、その次は地元の有力豪族の新免氏の係累を自称し新免無二斎、そして最終的に新免氏との縁切りの意味合いを絡めて御前試合の勝利者という意味で御免無二斎に改めたと言われている。

ただ、彼の本来の格闘術は勝てば何でもいいという全く手段を選ばない、汚い技も平気で使用する相当外道な戦法であったらしく、そのうえに本人自身がとんでもない癇癪もちであったために地元では兵法指南役としての仕官の道が次第に閉ざされ、その高名ゆえにやってくる腕自慢たちを容赦なく叩きのめしては自分の名前をあえて詰問するという憂さ晴らしを行う毎日だったと伝えられている。

宮本武蔵について[編集]

その子・宮本武蔵については幼年期についてはっきりしたことはわかっていない。

幼少のころから母は無く父・無二斎の男手一つで養育されていたらしい。戦国の倣いとして武蔵も武芸者として立ち行くようにと幼少の頃から父の兵法を伝授されてはいたのだが、前述のとおり破天荒な無二斎は父としても指南役としても相当問題がある人物であったらしく、昼夜を問わず事あるごとに自らの名前・御免無二斎を連呼させては悦に入り、気持ちを込めずに言わないと木刀で殴打するという悪癖を自分が倒した道場破りのみならず幼少の武蔵にも押し付けていたのだと言われている。いつも戦場でいるつもりで行動しろという常在戦場を兵法の基本としていた無二斎であるから、武蔵が寝ているときですら容赦なく夜襲をかけて隙あらばぶん殴るという現在では信じられないような修練を行っていたのである。

こうして養育された武蔵は父を尋ねてきた兵法家・有馬喜兵衛を13歳の若さで打ち倒してしまい、その力を恐れた無二斎に勘当されてしまう。ここから武蔵は美作を離れてよく知られているような全国津々浦々の剣豪たちと死闘を繰り広げるのである。

武蔵本人は当初は勝てば何をしてもいいという父の教えを忠実に守っていたらしく、先代からの因縁である吉岡道場との大決戦は大将である遺児を真っ先に斬殺、有名な佐々木小次郎との巌流島の決戦はあらかじめ渡島させておいた弟子とともに集団で撲殺という後味の悪い方法で葬り去ってきたのである。 世は戦国から太平の世に移り変わろうとしている頃であり、武蔵が身を寄せている大名からも他の手は無かったのかと問われることが日増しに増えてくるのである。最初の頃こそ最強と呼ばれた父直伝の不敗の戦法だと真面目に返答していたのではあるが、毎度毎度同じ詰問に嫌気が差した武蔵の答弁は自然と短くなっていき、ついには「御免無二斎!(意訳:文句は父に言ってください。御免無二斎!(意訳:最強の俺に勝てると思ってるのか?)」と二言言っては殺気立つばかりなので誰もが説得を諦めたと伝えられている。

十手持ちについて[編集]

徳川の世が磐石になり、戦国時代とは全く別のシステムが構築されるようになってくる。いまだかつて無いほどに発展していく街に対応するため武家社会から委託されて警備の一端を担うのが時代劇ではおなじみの岡引、いわゆる十手持ちである。

きちんとした武士と違って十手持ち自身は元々ならず者からの派生ということもあり、市中での情報収集などの業務に際して少々行儀の悪い手段をとって諍いが起きるのは特段珍しいことではなかった。かといって警備業務の一端を半公認的に任されている難しい事情もあって無辜の一般市民にとって乱暴な十手持ちというのはすこぶる迷惑な存在でもあった。

そこで編み出されたのが十手持ちと揉めそうなときには先んじて「御免無二斎!」と呼びかける方法であった。

その頃は既に剣豪・宮本武蔵の名は天下に轟いており、当時はその最強の兵法を伝授し、また武蔵が最強となってもなお頻繁に夢枕に立ってはその名を連呼させてしまうというほど恐れさせたという父・無二斎の名も同様に世間に広く認知されていたのである。「御免無二斎!」と一言声をかけられるとどんな暴れ者の十手持ちであっても、いや、だからこそ最強の十手使いとして天下に知られた御免無二斎と自分が同格に扱われているという感覚に十手持ちの誰もが態度を格段に軟化させて信じられないほどに説得しやすくなるというものである。

粗暴な十手持ちが多かった当時、この便利な衝突回避方法はたちまち江戸中、そしてより言い易いように「御免なさい!」というややくだけた表現になって全国に広まっていったのである。そしてそれに伴い十手持ちのみならず通常の対話においても怒られそうだな、もしくは何かこいつウザイな、絡まれたくないなという相手に相対したらとにかく何も考えずに即座に「ごめんなさい!」という衝突回避の風習が根付いたのである。これが謝罪という概念の骨格となっていくのである。

概説[編集]

ウルトラマンジャックの威嚇を悟り、こう発言する怪獣の図。

ごめんなさいというのは人間が怒りを表したとき、またはその予兆が感じられるとき予防としての受け答えとして発達した。その為、老若男女問わず時代を超えて世界中に根付いている。しかし元々相手の立場を思いやっての発言では一切無くただ単に相手を立てるそぶりを見せておいて怒りを鎮火するというだけの温い応対が主目的であるために、中にはごめんなさいだけでは済まされずその活用形であるすみませんすいませんを行使せざる負えない状況になることもある。詳しくはエクストリーム・謝罪参照。

世界の謝罪[編集]

このように謝罪という概念は元々日本人が鎖国状態の島国という閉鎖環境で使いこなしていたものであり、侵略と防衛に明け暮れていた他民族にとってはカルチャーショックとして受け止められた。そしてその精神に感銘を受けたアーティストや政治家の中には日本人の根底に流れる“GOMENNASAI”の精神をきちんとした形で翻訳して自国の文化に積極的に取り入れようとする流れ、後に言うジャポニズムが巻き起こったのである。

I'm sorry[編集]

現在英語における謝罪の台詞は“I'm sorry”である。これにはいくつか説があるが米国大統領・ルーズベルトが広めたというのが一般的に知られている。

中:对不起[編集]

中国語で謝罪の台詞は“对不起”と書く。直訳するなら「私は起家(チーチャ)じゃないよ?」という意味になる。

韓:미안해요[編集]

文化[編集]

世界中で一秒に一回は使われている言語。

ごめんなさい  
  • 川田あつ子
心からのごめんなさい
  • 品川裕香

関連項目[編集]

Uncyclo letter u2.png この記事は第一回拡張王コンテストに参加しました。