IBM産業スパイ事件(アイ・ビー・エムさんぎょうスパイじけん)とは、1982年昭和57年)6月22日日立製作所(以下、日立)や三菱電機(以下、三菱)の社員など計6人が、米IBMの機密情報に対する産業スパイ行為を行ったとして逮捕された事件である。

この事件は、各日本メーカーとIBM米本社との間の事件で、同日本法人である日本アイ・ビー・エム株式会社は無関係であり、同社関係者にも寝耳に水の事件であった[1]

IBMと日立は翌1983年に和解した。また1984年より、当初は当事者外であった富士通とIBMの交渉も進められ、1988年に和解した。

事件の経緯

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1981年IBMはアドレスを31ビットに拡張し(System/370-XA)、オペレーティングシステム (OS) の一部をファームウェア化して互換機を作りにくくしたメインフレームコンピュータの3081K を発表した。互換機メーカーであった日立は 3081K に関する技術文書をNAS(ナショナル セミコンダクターの汎用コンピュータ部門で、日立からOEM供給を受けていた)から入手した。一方、かねてからコンサルティングで日立との取引があったペイリン・アソシエーツ社から 3081K に関する報告書の売り込みがあった。日立はその目次を見て、NASから入手済みの資料に酷似しており、両方の文書が何らかの共通の資料に基づくものと判断。ペイリン社に対して、「その資料は既に持っている。しかし、それは一部と思われるので、他にもあるなら購入したい」と伝えた。ペイリン社の社長ペイリーは元IBM従業員であり、日立がIBM3081Kの資料を入手済みであることをIBMのボブ・エバンズ(当時、副社長)に通報。結果として、FBIによるおとり捜査が行われ、日立と三菱の社員が逮捕されることになった。

刑事事件自体は、1983年2月に司法取引により決着した。しかしIBMは日立に対して民事損害賠償訴訟を起こした。

その後の影響

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1983年10月6日、民事訴訟は和解に達した。和解内容には、1988年までIBMが日立のコンピュータ製品を事前に検査できること、訴訟費用を全額日立が負担することなどが含まれている。しかし、同年12月7日の朝日新聞で、ソフトウェアに関する秘密協定があったことが報じられている。これは、類似ソフトウェアやインターフェイスについて日立がIBMに対価を支払うことを取り決めたものとされている。また、富士通はIBMが著作権法違反で訴えようとしていることを察知して1982年末ごろから極秘交渉を開始し、日立と同様の協定を1983年7月に結んだとされている。

IBMは1984年に日立と富士通の立ち入り調査を行い、12月に富士通が協定違反しているとして違約金の支払いを求めた。こちらの紛争は長引き、1988年に和解している。

なお、3081K互換の製品とは、1985年に発表されているHITAC M680HFACOM M780のことである。

脚注

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  1. ^ 椎名武雄が日経の「私の履歴書」でそう語っている

参考文献

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  • 高橋茂(著)、『コンピュータクロニクル』オーム社(1996年)、ISBN 4-274-02319-2
  • 那野比古(著)、『日米コンピューター戦争―IBM産業スパイ事件の底流 』日本経済新聞社出版局(2000年)、ISBN 978-4-532-09527-7
  • 立石泰則(著)、『覇者の誤算―日米コンピュータ戦争の40年〈上〉』日本経済新聞出版社(1993年)、ISBN 978-4-532-16101-9
  • 立石泰則(著)、『覇者の誤算―日米コンピュータ戦争の40年〈下〉』日本経済新聞出版社(1993年)、ISBN 978-4-532-16102-6
  • 立石泰則(著)、『覇者の誤算―日米コンピュータ戦争の40年』講談社(1997年)、 ISBN 978-4-06-263456-4
  • 椎名武雄(著)、『外資と生きる―IBMとの半世紀私の履歴書』日本経済新聞出版社(2001年)、 ISBN 4-532-19086-X
  • 伊集院丈(著)、『雲を掴め―富士通・IBM秘密交渉』日本経済新聞出版社(2007年)、 ISBN 4-532-31366-X
  • 伊集院丈(著)、『雲の果てに―秘録富士通・IBM訴訟』日本経済新聞出版社(2008年)、 ISBN 978-4-532-31428-6

外部リンク

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