鷹司信尚
日本の江戸時代の公卿。従一位・関白・左大臣。藤氏長者。鷹司家14代。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正18年4月14日(1590年5月17日) |
死没 | 元和7年11月19日(1621年12月31日) |
諡号 | 景皓院 |
官位 | 従一位、関白、左大臣 |
主君 | 後陽成天皇→後水尾天皇 |
氏族 | 鷹司家 |
父母 | 父:鷹司信房、母:佐々輝子 |
兄弟 | 信尚、 孝子、松平信平、貞淑院如瑞 |
妻 | 女三宮清子(後陽成天皇皇女) |
子 | 教平、大光院、春光院 |
経歴
編集文禄5年(1596年)2月28日、正五位下叙位、元服、禁色雑袍昇殿。同年3月1日、右近衛権少将に叙任。同年3月8日、従四位下。慶長2年(1597年)12月29日、右近衛権中将に叙任。慶長6年(1601年)正月6日、正四位下。同年3月19日、播磨権守。
慶長7年(1602年)正月6日、従三位。慶長11年(1606年)正月11日、権中納言。慶長12年(1607年)12月30日、正三位。慶長13年(1608年)正月7日、権大納言。慶長14年(1609年)、左近衛大将を兼任。
慶長16年(1611年)2月9日、従二位に叙される[1]。同年3月12日、内大臣に任じられる[2]。左大将如元[3]。同年4月12日、後水尾天皇が即位しており、信尚は、譲位節会、即位時に内弁を務めた[3]。
慶長17年(1612年)正月17日、左近衛大将を辞任。同年2月2日、正二位。3月18日右大臣となり、7月25日、関白の詔を受け、同日、氏長者・内覧兵杖牛車随身一座宣下。慶長19年(1614年)正月5日、従一位。元和元年(1615年)7月27日、関白を辞退。九条忠栄の左大臣辞退に伴い左大臣となる。元和6年(1620年)正月13日、左大臣辞退。