鳳 啓助(おおとり けいすけ、本名:小田 啓三、1923年大正12年〉3月16日 - 1994年平成6年〉8月8日)は、日本の俳優漫才師大阪府大阪市出身。

おおとり けいすけ
鳳 啓助
本名 小田 啓三
別名義 志織 慶太(脚本家としての名義)
生年月日 (1923-03-16) 1923年3月16日
没年月日 (1994-08-08) 1994年8月8日(71歳没)
出生地 大阪府大阪市
死没地 静岡県
国籍 日本の旗 日本
職業 漫才師俳優
ジャンル 漫才テレビドラマ映画
活動期間 1956年 - 1994年
配偶者 鳳ハマ子(夫人)、京唄子(元夫人)
主な作品
唄子・啓助のおもろい夫婦』(司会)
お笑いスター誕生!!』(審査員)など
受賞
第9回上方お笑い大賞秋田實賞(1980年
テンプレートを表示

来歴・人物

編集

父は剣戟俳優梅林良雄

3歳の時に祖父の劇団で子役デビュー。

1956年に自ら座付き作家を務めた「瀬川信子一座」の一員だった京唄子と出逢い、漫才コンビ「唄子・啓助」を結成。

お馴染みの挨拶である「エーッ、鳳啓助でございます」をはじめ、「ポテチン」「あら、言いそこ間違いよ」「君のことは忘れようにも思いだせない」などのギャグで人気を博す。

その後、唄子と結婚するが、1964年に離婚。コンビとしての活動は続けて「唄啓劇団」を旗揚げした。

2度の結婚を経て「志織慶太」の名で脚本家としても活動。

俳優としても多数の映画に出演。

唄子・啓助のおもろい夫婦』の司会や『お笑いスター誕生!!』に審査員としても出演(特に『おもろい夫婦』では唄子との丁々発止の言葉のやり取りが番組の名物となった)。

1994年8月8日、上顎洞癌リンパ節転移により死去。71歳没。1991年にがんが見つかり、医師から手術を勧められるが「顔を切らないと手術が出来ない」との説明に対して、「顔は芸人の看板」と主張し、民間療法、自然療法などに頼り、一切の延命治療を拒否した[1]

受賞

編集

出演

編集

映画

編集

テレビ

編集

ラジオ

編集

書籍

編集
  • 「鳳啓助のポテチン闘病記」(鳳ハマ子※最後の夫人…姓はペンネーム、毎日新聞社

レコード

編集
  • 「ポテチンワルツ」
  • 「大阪ごころ」

エピソード

編集

漫才について

編集

1956年京唄子とコンビを結成。女性上位のしゃべくり漫才で、唄子が啓助に「このエロガッパ!」とツッコミを入れるのと、啓助が唄子に「わー大きな口に吸い込まれるぅ」と言って体を唄子に寄せる定番ギャグがあった。ネタはすべて啓助が作り、唄子は啓助の演出に従っていた。
所属事務所は当初上方芸能であり、うめだ花月角座に出演していたが、のちに千土地興行に移籍して千日劇場を本拠とし、同劇場での舞台中継(読売テレビ)も放送された。1966年娯楽観光に移籍して事実上フリーになり、東京でも活動するようになる。
1970年に唄啓劇団を旗揚げして俳優活動に軸足を移し、以降は漫才活動を控えていたが、啓助の死まで正式な解散宣言はしていなかった。

その他

編集

弟子

編集

直弟子

編集

孫弟子

編集

脚注

編集
  1. ^ 日刊スポーツ 1994年9月10日付

外部リンク

編集