高須 四郎(たかす しろう、1884年10月27日 - 1944年9月2日)は、日本海軍軍人海軍兵学校35期。最終階級は海軍大将

高須 四郎
生誕 1884年10月27日
日本の旗 日本 茨城県稲敷郡桜川村(現・稲敷市
死没 1944年9月2日(59歳没)
日本の旗 日本 東京都
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴 1907年 - 1944年
最終階級 海軍大将
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生涯

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1884年10月27日茨城県稲敷郡桜川村(現・稲敷市)に生まれる。旧制土浦中学校(現・土浦第一高等学校)を経て、1907年(明治40年)11月20日、海軍兵学校35期を172名中10位で卒業。1917年(大正6年)12月1日、海軍大学校甲種学生(17期)。

1923年(大正12年)6月1日、在イギリス大使館付武官補佐官。

1932年(昭和7年)5月15日、五・一五事件発生。高須は軍令部出仕兼海軍省出仕として、この事件の海軍側関係者を裁く軍法会議の判士長を務めた。判士長を務めた五・一五事件の裁判で一人も死刑を出さなかった事が、後の二・二六事件の誘引になったという批判を終生気に病み、死去直前にも「死刑者を出すことで海軍内に決定的な亀裂が生じる事を避けたかっただけだ」と家族に胸中を吐露していた。五・一五事件後の政党政治の崩壊を嘆いた。高須は知英派であった為、日独伊三国軍事同盟日米開戦に反対していた。

1937年、日中戦争勃発。第一航空戦隊司令官として上海地区で陸戦隊を支援する。のちには駐満海軍部の最後の司令官として、在地海軍兵力と満洲帝国海上部隊を統一指揮した。

1938年(昭和13年)11月15日、海軍中将に昇進、海軍大学校校長に任命。

1939年(昭和14年)9月29日、第五艦隊司令長官。南支方面の封鎖作戦を担当。11月15日、第二遣支艦隊司令長官。 北部仏印進駐の際は、平和進駐方針を無視した富永恭次らの行動に反発し、護衛艦艇を引揚げる強硬手段をとった[1]

1940年11月15日、第四艦隊長官(内南洋担当)に任命。

1941年(昭和16年)6月17日、勲一等瑞宝章受章。従来連合艦隊司令部が兼任していた第一艦隊司令部の独立に伴い、8月11日、第一艦隊司令長官。12月、太平洋戦争開戦。第一艦隊は戦場に恵まれず、「艦隊」「柱島艦隊」と揶揄された。

1942年(昭和17年)9月15日、南西方面艦隊司令長官。兼第二南遣艦隊司令長官。

1943年(昭和18年)9月20日、兼第十三航空艦隊司令長官。

1944年3月1日、海軍大将に昇進。4月2日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将が行方不明になる事件(海軍乙事件)が起こり、次席指揮官である南西方面艦隊司令長官の高須が連合艦隊の指揮を取ることが発令された[2]。高須は、敵の作戦目的を西部「ニューギニア」に対し上陸を企図している公算大と推察しており[3]、4月12日、連合艦隊電令作第四六号で「Z一作戦要領」を発令し、西部ニューギニア北岸方面を警戒した[4]。高須は従来の担当地域を重視したままで、マリアナカロリンに配備を進めていた基地航空兵力の大半を西部ニューギニア方面に移した。大本営は、中部太平洋方面も警戒するため、マリアナ兵力を南方へ移動させるのは反対だったが、高須は、連合艦隊指揮官としての所信において兵力を移動させた。練度や機材の悪化から移動だけで兵力を損耗し、到着した飛行機も故障や飛行場の設備不備のため、半数は使用できず、中部太平洋航空兵力は手薄になった[5]。5月3日、豊田副武大将が連合艦隊司令長官に親補され、高須から連合艦隊の指揮権が移った。6月18日、軍事参議官に就任。

1944年9月2日、東京にて病没。59歳没。9月19日、功二級金鵄勲章受章。墓所は青山霊園

親族

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長男は戦時中水上機母艦「日進」の主計長で、沈没時に戦死。次男の敏行は元日本大学経済学部教授。

年譜

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栄典

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出典

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  1. ^ 『井上成美』「支那方面艦隊参謀長時代」
  2. ^ 戦史叢書71巻 大本営海軍部・聯合艦隊<5>第三段作戦中期 467頁
  3. ^ 戦史叢書71巻 大本営海軍部・聯合艦隊<5>第三段作戦中期 469頁
  4. ^ 戦史叢書71巻 大本営海軍部・聯合艦隊<5>第三段作戦中期 470頁
  5. ^ 戦史叢書71巻 大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期 付録3頁
  6. ^ 『官報』第7701号「叙任及辞令」1909年3月2日。
  7. ^ 『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。
  8. ^ 『官報』第3423号「叙任及辞令」1924年1月23日。

関連文献

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関連項目

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