高田 雅夫(たかた まさお、1895年9月30日 - 1929年5月24日[1])は、日本の舞踊家である[1]浅草オペラの時代(1917年 - 1923年)に、赤坂ローヤル館松竹新星歌舞劇団根岸興行部根岸大歌劇団等で活躍した。本名は中村 輝義[2]石井漠と並ぶ日本洋舞界の開拓者[2]

たかた まさお
高田 雅夫
高田 雅夫
本名 中村 輝義
生年月日 (1895-09-30) 1895年9月30日
没年月日 (1929-05-24) 1929年5月24日(33歳没)
出生地 日本の旗 日本 鹿児島県鹿児島市新屋敷通町
職業 舞踊家
ジャンル オペラ
活動内容 浅草オペラ
配偶者 原せい子(高田せい子
主な作品
オッフェンバック天国と地獄
ビゼーカルメン
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人物・来歴

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鹿児島県鹿児島市新屋敷通町出身[3][2][4][5]。父・軍助は、欧州航路で初の機関長になった人物[2]鹿児島市立松原小学校在学中に父が死亡し、姉妹とともに母一人によって育てられる[2]鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業[5]。中学の同窓の友人に安藤照谷口午二がいる[2][6]

旧制中学卒業の頃に上京し[2]1913年(大正2年)、試験に合格して[2]帝国劇場歌劇部に第二期生として入る[7]。オペラ指導者イタリア人ローシーの指導をうけ[1][4]、翌年バレエの主役に抜擢され初舞台。同部は1916年(大正5年)に解散、ローシーが同年10月に赤坂・ローヤル館を開業し、オペラ興行を行い、参加した。1918年(大正7年)、原せい子と結婚[1][4]、原は高田せい子と名乗るようになる。ローヤル館は、1919年(大正8年)2月には解散となる。同年5月、松竹が浅草公園六区の浅草オペラに参入、「新星歌舞劇団」を結成、高田夫妻はこれに参加する。

1920年(大正9年)8月、根岸興行部の「金龍館」館主・根岸吉之助が、「新星歌舞劇団」から、高田夫妻、清水金太郎清水静子夫妻、田谷力三堀田金星らローヤル館出身者を引き抜き、「根岸大歌劇団」を結成、同年10月11日に旗揚げ公演を行った。金龍館と同歌劇団を中心に、浅草オペラは隆盛を極めた。

関東大震災前の1922年(大正11年)妻とともに欧州米国へと発ち、各地で舞踊を研究した[1]、1924年(大正13年)3月、「根岸大歌劇団」は解散しており、浅草オペラは下火になっていた。帰国後の同年、高田舞踊研究所を設立した[1]。松竹楽劇部の顧問も務めた[5]

1929年(昭和4年)5月24日、死去した[1]。満33歳没。墓所は多磨霊園(5-1-14-51)。安藤照の手による胸像が、妻のせい子から1966年(昭和41年)鹿児島県文化センターへ開館記念に贈られた[2]

名作に「崇高」「剣の舞」「東洋の幻想」などがある[4]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g コトバンクサイト内の記事「高田雅夫」の記述を参照。
  2. ^ a b c d e f g h i 南日本新聞社・編『郷土人系 上』(春苑堂書店、1969年)512頁
  3. ^ 鹿児島市(1970) p.1084
  4. ^ a b c d 南日本新聞社『鹿児島大百科事典』(1981年)
  5. ^ a b c 日外アソシエーツ『20世紀日本人名事典』(2004年刊)
  6. ^ 南日本新聞社・編『郷土人系 下』(春苑堂書店、1970年)66頁
  7. ^ 日本現代舞台芸術年表 大正 2019年8月18日閲覧

参考文献

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関連項目

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