高橋清治郎
高橋 清治郎(たかはし せいじろう、1894年(明治27年)2月8日[1][2] - 1957年(昭和32年)12月7日[3])は日本の政治家。衆議院議員(2期)。宮城県玉造郡鳴子町(現・大崎市)長。
経歴
編集宮城県玉造郡鳴子町鬼首蟹沢(現在は大崎市)で生まれた。明治大学法学部卒業[3][4]後、米国ワシントン大学[要曖昧さ回避]ランドスクールで政治学を専攻。コロンビア大学でも学んだ[3]。在米8年。帰国後は明治大学講師となった[3][4][注 1]。
その後、日東窯業、明治大学出版部、鳴子木材、東北鉱山資材各取締役[3]、日東紡績理事、荒尾嶽鉱業取締役社長[3]、鳴子町会議員となる[5]。
1948年(昭和23年)5月21日に旧宮城2区で行われた第23回衆議院議員補欠選挙に民主党から立候補し当選[5][6]。翌年の第24回衆議院議員総選挙で再選[5][6]。第25回衆議院議員総選挙で改進党から立候補したが落選した[6]。衆議院議員を2期務め[3][5]、「社会保障の大幅実施」「福祉国家の建設」を唱え戦後の「国民年金制度」創設に尽力した。
落選後の1954年(昭和29年)、旧鳴子町、川渡村、鬼首村の合併後の初代鳴子町長に就任。全国町村会副会長、宮城県町村会長を務めた[3][5]。
1957年(昭和32年)内閣総理府の特命団長として2回にわたりサンフランシスコ講和条約下にある沖縄に派遣され、沖縄全土の日本国返還の基礎つくりに関わった。同年暮れに町長在職中に死去した。
憲政、議会政治の父と称された尾崎行雄(咢堂)を師と仰いだ。
1987年(昭和62年)出生地・鳴子町に地元有志により立像顕彰碑が建立された。
著書
編集- 『現代政治と其動向 政治家の觀たる』
- 『米国大統領選挙論』
- 『民主主義とは何ぞ』
脚注
編集注釈
編集- ^ 銅像台座には「明治大学教授」と記載。
出典
編集参考文献
編集- 『宮城県百科事典』河北新報社、1982年。
- 『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 朝日新聞選挙本部編『朝日選挙大観』朝日新聞社、1997年。