高松 (練馬区)
高松(たかまつ)は、東京都練馬区の町名。現行行政地名は高松一丁目から高松六丁目。住居表示実施済み区域である。郵便番号は179-0075[3]。
高松 | |
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高松八幡神社 | |
北緯35度45分28.76秒 東経139度37分5.23秒 / 北緯35.7579889度 東経139.6181194度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 東京都 |
特別区 | 練馬区 |
面積 | |
• 合計 | 1.382 km2 |
人口 | |
• 合計 | 17,609人 |
• 密度 | 13,000人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
179-0075[3] |
市外局番 | 03[4] |
ナンバープレート | 練馬 |
地理
編集練馬区の中部に位置する地域。住宅が立ち並び、耕作地も多く見られる。高松一丁目から高松四丁目までは北部が光が丘と隣接し、光が丘の南西部を包み込むように高松五丁目と高松六丁目が伸びた独特の形をしている。高松五丁目・高松六丁目は北部が土支田と旭町と隣接している。また南部は貫井、東部は春日町、西部は谷原と隣接している。笹目通りを北上すると約450mで埼玉県境となる。
世帯数と人口
編集2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
高松一丁目 | 1,392世帯 | 2,875人 |
高松二丁目 | 1,138世帯 | 2,503人 |
高松三丁目 | 1,212世帯 | 3,152人 |
高松四丁目 | 1,508世帯 | 3,465人 |
高松五丁目 | 1,256世帯 | 2,670人 |
高松六丁目 | 1,371世帯 | 2,944人 |
計 | 7,877世帯 | 17,609人 |
小・中学校の学区
編集区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[5]。
丁目 | 街区 | 小学校 | 中学校 |
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高松一丁目 | 1〜4番 19~23番 |
練馬区立春日小学校 | 練馬区立練馬中学校 |
30~32番 | 練馬区立練馬小学校 | ||
その他 | 練馬区立高松小学校 | ||
高松二丁目 | 全域 | ||
高松三丁目 | 1~22番 | ||
23~24番 | 練馬区立谷原中学校 | ||
高松四丁目 | 23~32番 | ||
その他 | 練馬区立練馬中学校 | ||
高松五丁目 | 1〜5番 | 練馬区立谷原中学校 | |
6~12番 | 練馬区立光が丘春の風小学校 | 練馬区立光が丘第二中学校 | |
その他 | 練馬区立光が丘四季の香小学校 | 練馬区立光が丘第一中学校 | |
高松六丁目 | 1~29番 | 練馬区立北原小学校 | 練馬区立谷原中学校 |
その他 | 練馬区立豊渓小学校 |
地価
編集住宅地の地価は、2015年(平成27年)1月1日の公示地価によれば、高松4-7-22の地点で33万9000円/m2となっている。[6]
歴史
編集江戸時代、現在の田柄・光が丘・春日町・高松・向山・貫井はまとめて武蔵国豊島郡上練馬村と呼ばれており、高松は村の中にあった小名(こな)のひとつであった。今も町名として残っている小名は他に貫井と田柄があり、それらは江戸時代初期の検地帳にも載っていることから、江戸時代以前からこの地域は高松と呼ばれていたことがうかがえる。なお、高松は大きく高松と大門(だいもん)という字に分かれていた。
1926年(大正15年)から1935年(昭和10年)まで、目白中学校(後の中央大学附属中学校・高等学校の母体)が、後の練馬区立練馬中学校地に所在していた。
1942年(昭和17年)、太平洋戦争は日本にとって厳しい状況へとなりつつあり、東京への爆撃が初めてあった。そのため翌1943年(昭和18年)に田柄・土支田・高松にまたがる陸軍の成増飛行場(高松飛行場とも呼ばれる)が建設された。終戦後、飛行場跡は米軍基地のグラントハイツになり、1969年(昭和44年)に光が丘となった。高松五丁目と高松六丁目が光が丘の南西部を包み込む腕のように伸びている奇妙な形状を成しているのはそのためである。
地名の由来
編集高い松があったからとの言い伝えられているが、その松がどこにあったのかは分かっていない。
沿革
編集1932年(昭和7年)の板橋区成立時に練馬高松町一丁目・練馬高松町二丁目となる。1947年(昭和22年)練馬区に所属[7]、1949年(昭和24年)1月1日に冠称を外して高松町となった。1969年(昭和44年)9月1日に住居表示が実施され、周辺の地域と境界を調整し現行の高松一丁目から高松六丁目となり、北東部は光が丘となった[8]。
町名の変遷
編集実施後 | 実施年月日 | 実施前(特記なければ、各町名ともその一部) |
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高松一丁目 | 1969年9月1日 | 高松町一丁目 |
高松二丁目 | ||
高松三丁目 | ||
高松四丁目 | ||
高松五丁目 | 高松町二丁目、旭町 | |
高松六丁目 | 高松町二丁目、土支田町 | |
光が丘 | 田柄町一丁目(全域)、田柄町二丁目(全域)、高松町一丁目、高松町二丁目、旭町 |
産業
編集農業
編集- 販売農家数:28戸
- 農業就業人口:76人
- 経営耕地面積:1546a
- 畑:1181a
- 樹園地:365a
- 主要農作物作付面積
- キャベツ:588a
- ばれいしょ:103a
- ダイコン:104a
- ほうれんそう:49a
(2000年(平成12年)2月1日現在、「練馬区統計書平成17年版 農業センサス」より。なお、ここに掲載したのは農業集落名が「高松町」となっている農家だけなので実際にはこれより若干数字は大きい)
- 高松は練馬区内でも比較的耕作地は多い方だが、やはり宅地化が進んでおり農業は縮小しつつある。
工業
編集- 工場数:34(2003年(平成15年)12月現在「練馬区統計書平成17年版 工業統計調査」より)
- 従業者数:394人
- 常用労働者:383人
- 事業主・家族従業者:11人
- 製造品出荷額等:556,532(万円)
- 付加価値額:305,909(万円)
高松の工業は工業統計調査を見る限り縮小しつつある。2000年と比べ2003年では、工場数は12減(-26.0%)、従業者数は126人減(-24.2%)、製造品出荷額は33億3129万円減(-37.4%)と非常に厳しい状況にあり、練馬区全体に共通する工業の縮小を反映している。従業者数の内、事業主・家族従業者の割合が練馬区全体では7.5%なのに対し高松では2.7%と少ないのが特徴である。
商業
編集- 卸売業(2002年(平成14年)現在・「練馬区統計書平成17年版 商業統計調査」より)
- 商店数:52
- 従業者数:431人
- 年間販売額:18334(百万円)
- 小売業
- 商店数:87
- 従業者数:871人
- 年間販売額:14112(百万円)
交通
編集隣接街区の駅 |
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- エイトライナー ーーー 同地区を対象とした路線構想
バス
編集施設
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史跡
編集関連項目
編集参考文献
編集- 桑島新一 「練馬の地名今むかし」『ねりま区報』、練馬区、1984年(昭和59年)6月~1985年(昭和60年)8月
- 桑島新一 「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」『ねりま区報』、練馬区、1985年(昭和60年)11月~1986年(昭和61年)4月
- 練馬区 『練馬区統計書 平成17年版(2005年版)』 練馬区、2006年
脚注
編集- ^ “練馬区統計書 - 町丁別土地面積、気温、降水量の推移、住民基本台帳による世帯数と人口など”. 練馬区 (2016年10月1日). 2018年1月4日閲覧。
- ^ a b “世帯と人口(人口統計) - 町丁目別”. 練馬区 (2017年12月5日). 2018年1月4日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2018年1月4日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2018年1月4日閲覧。
- ^ “区立小中学校 学区域一覧”. 練馬区 (2017年8月24日). 2018年1月4日閲覧。
- ^ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査
- ^ 『1947年(昭和22年)7月31日内務省告示第253号「東京都板橋区の中練馬及石神井両支所の所管区域を分け練馬区設置」』。ウィキソースより閲覧。
- ^ 1969年(昭和44年)12月16日自治省告示第197号「住居表示を実施した件」