高山 勲(たかやま いさお、1942年4月8日 - 1978年[3]は、栃木県[4]出身のプロ野球選手。ポジションは投手二塁手外野手

高山 勲
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 栃木県
生年月日 (1942-04-08) 1942年4月8日
没年月日 (1978-03-21) 1978年3月21日(35歳没)
身長
体重
177 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手二塁手外野手
プロ入り 1963年
初出場 1964年4月25日[1]
最終出場 1966年10月2日[2]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物

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宇都宮学園高等学校(現・文星芸術大学附属高等学校)在学中は、作新学院加藤斌(のち中日。現役中に交通事故死)と共に栃木県を代表する投手と言われた。甲子園出場はなかったが[5]、高校卒業後は社会人野球の東黎工業に入社し、1962年日本産業対抗野球大会に出場した[6]。宇都宮学園,東黎工業時代のチームメイトに石田二宣(のち毎日大映,東京,ロッテオリオンズ)がいる[5][6]

1963年大洋ホエールズに入団[4]。当時の大洋の投手層は厚く、なかなか一軍出場の機会に恵まれなかったが、1964年4月25日中日戦(中日球場)で一軍デビューを果たした[1]1965年には12試合に登板し、10月10日阪神戦(川崎球場)では、生涯唯一の先発投手を経験した(勝敗は付かず)[7]。球威はなかったが、器用さを買われて打撃投手をよく務めていたと伝わる。投手の他に二塁手外野手での出場もあった。また、三原脩監督の偵察メンバー要員になる事も良くあった[8]1966年限りで引退した[4]。オーバースローから、ドロップ、カーブ、シュート、シンカーを武器とした。

引退後は栃木県今市市(現・日光市)の実家で建具店手伝いなどをしていたが、約2年半が経った頃に黒い霧事件の調査の過程で、現役中にオートレース八百長に関与していた疑いが浮上。1970年4月23日田中勉(元西鉄投手)、藤縄洋孝(元暴力団森岡組準組員)と共に東京地方検察庁特別捜査部小型自動車競走法違反の容疑で逮捕された[9]。その後、球界からは事実上の永久追放となった。

最後は永久追放を受けそのストレスからうつ病を発症。睡眠薬の多量摂取により自殺した。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1965 大洋 12 1 0 0 0 0 0 -- -- ---- 94 22.2 20 2 7 0 0 17 0 0 7 7 2.74 1.19
NPB:1年 12 1 0 0 0 0 0 -- -- ---- 94 22.2 20 2 7 0 0 17 0 0 7 7 2.74 1.19

年度別打撃成績

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O
P
S
1964 大洋 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1965 12 2 2 0 1 1 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .500 .500 1.000 1.500
1966 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
通算:3年 17 2 2 0 1 1 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .500 .500 1.000 1.500

背番号

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  • 56 (1963年 - 1966年)

脚注

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  1. ^ a b 1964年中日vs大洋 7回戦
  2. ^ 1966年大洋vs阪神 24回戦
  3. ^ 高山勲:週刊ベースボールONLINE
  4. ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、326ページ
  5. ^ a b 都道府県・出身校別プロ野球選手リスト(高校野球・激闘の記憶と栄光の記録)※宇都宮実(宇都宮学園・文星芸大付)の欄で、甲子園出場がないまま1960年に卒業した事が分かる。
  6. ^ a b 社会人野球人国記・東京(15)東黎工業
  7. ^ 1965年大洋・スタメンアーカイブ
  8. ^ キャッチャーに偵察メンバー(日本プロ野球私的統計研究会)阿部成行の項を参照。
  9. ^ 「田中、高山を逮捕 八百長オート レーサー抱き込む」『朝日新聞』昭和45年(1970年)4月24日朝刊、12版、15面

関連項目

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外部リンク

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