韮山城
韮山城(にらやまじょう)は、伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山)にあった、室町時代後期から安土桃山時代にかけての日本の城(平山城)。
韮山城 (静岡県) | |
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韮山城址 | |
別名 | 龍城 |
城郭構造 | 平山城 |
築城主 | 不明(外山豊前守?) |
築城年 | 不明(15世紀末?) |
主な改修者 | 北条早雲、後北条氏 |
主な城主 | 北条早雲、北条氏規 |
廃城年 | 1601年(慶長6年) |
遺構 | 水堀、土塁、堀切、郭、虎口、園池、屋敷跡 |
指定文化財 | 未指定 |
位置 | 北緯35度03分13.3秒 東経138度57分20.0秒 / 北緯35.053694度 東経138.955556度 |
地図 |
概要
編集15世紀末に伊勢盛時(北条早雲)の関東経略の拠点として整備され、後北条氏の関東支配後も伊豆支配の拠点としてその持ち城であったが、天正18年(1590年)には豊臣秀吉による小田原征伐において激しい攻防戦を経験している。龍城の異称を持つ。
歴史
編集築城年ははっきりしないが、『北条五代記』によると文明年間(1469年 - 1486年)に初代堀越公方足利政知の家臣、外山豊前守が城を造ったのが始まりとされている。また城内の熊野神社が勧進された年代から、1500年(明応9年)頃までには完成していたとする見解がある[1]。
初めはあまり大規模なものではなく、延徳5年(1491年)に2代堀越公方足利茶々丸を攻め滅ぼした伊勢盛時(北条早雲)によって、後北条氏の領有となり、同年から早雲によって後北条氏の本拠地として本格的に造営された。早雲はここを拠点に伊豆の各拠点の支配を進め、後に相模に領土を広げた後も小田原城に移ることなく、没するまでここを居城とした。
その後も小田原城を中心に関東を支配する後北条氏の重要拠点の一つとなり、永禄末年には時の当主・北条氏康の四男・氏規が城主として入り、伊豆支配の中心地とした。
元亀元年((1570年))8月に武田信玄の駿河侵攻の際攻められるが、北条氏規が守り切る。
天正18年(1590年)の小田原征伐では、ほぼ天下を統一していた豊臣秀吉の大幅な攻勢を受ける。韮山城にも織田信雄の軍勢が迫ったために氏規は籠城して戦い、北条方は総勢約3千6百、豊臣方は総勢約5万と伝えられる大きな戦力差のなかで約100日間も持ちこたえたが、秀吉が派遣した徳川家康が交渉にあたり、北条方諸城の落城を受けついに開城した[2]。
その後、関東に入った家康の家臣の内藤信成の居城としていたが 慶長6年(1601年)に転封され廃城となった。
現在の韮山城は、その敷地のほとんどがかつての韮山代官江川太郎左衛門の子孫である江川家の持ち物となっている[3]。
2005年(平成17年)12月17日に、韮山城の至近にある韮山高校のOBが中心となって「韮山城を復元する会」を創設した。
城の構造
編集典型的な平山城であり、丘陵に沿って縦に曲輪が連なっている。現在でも曲輪や土塁の跡などが残されており、散策路が整備されている。武家屋敷や政庁の位置は不明だが、韮山高校のグランドに御座敷という地名が残っており、1990年(平成2年)から1991年(平成3年)にかけて、韮山高校の校舎の建て替え工事に伴い発掘調査が行われており、井戸や園池のほか、屋敷跡と思われる遺構も出土している[4][5]。
脚注
編集- ^ 池谷 2009 pp.178
- ^ 黒田基樹『小田原合戦と北条氏』吉川弘文館〈敗者の日本史 10〉、2013年1月、155-178頁。ISBN 978-4-642-06456-9。
- ^ “【日本の名城】韮山城 没するまで居城としていた北条早雲”. ZAKZAK (産経新聞社). (2014年5月10日) 2014年5月10日閲覧。
- ^ 発掘調査に関する出典 : 『韮山城跡』静岡県教育委員会 1992年 より
- ^ 池谷 2009 pp.180
参考文献
編集外部リンク
編集- 韮山城跡 - 伊豆の国市
- Shizuoka城と戦国浪漫『韮山城』 - 静岡県文化・観光部 観光局観光振興課