青山忠敏

江戸時代後期の大名。丹波篠山藩6代藩主(最後)。従五位下因幡守、従四位下左京大夫。青山家宗家20代。青山忠良の次男。江戸幕府 奏者番

青山 忠敏(あおやま ただゆき)は、江戸時代後期の大名丹波国篠山藩第6代(最後)の藩主。官位従四位下左京大夫。青山家宗家20代。

 
青山忠敏
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保5年2月21日1834年3月30日
死没 明治6年(1873年3月21日
改名 鐘之助(幼名)、忠敏
戒名 霊源院愛巌五峯
墓所 兵庫県丹波篠山市岡屋の幡龍庵
官位 従五位下因幡守従四位下左京大夫
幕府 江戸幕府 奏者番
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
丹波篠山藩
氏族 青山氏
父母 青山忠良、映松院
兄弟 忠敏成瀬正肥井上正誠大関増徳
忠誠忠惇太田資功正室、銑姫、郁子、板倉勝運正室、土井利与正室、佐竹義堯継々室ら
牧野節成春林院
雅子ら
忠誠
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生涯

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天保5年(1834年)2月21日、5代藩主・青山忠良の次男として江戸で誕生した。嘉永3年(1850年)12月16日、従五位下・因幡守に叙位・任官する。文久2年(1862年)2月29日、父が病気を理由に隠居したため、家督を継いだ。幕末期の動乱の中では、譜代大名の名門のため佐幕派として行動し、文久3年(1863年)8月、二条城守備を務め、元治元年(1864年)5月には従四位下に昇叙され、7月の禁門の変にも出兵した。8月9日には左京大夫に遷任される。

元治2年(1865年)1月20日、奏者番に任じられる。慶応4年(1868年)1月からの戊辰戦争では、藩内で佐幕派と尊王派が争い、結局は西園寺公望ら新政府軍が山陰道を侵攻して来ると新政府に降伏[1]し、五箇条の御誓文の席にも参列した。明治2年(1869年)6月19日、版籍奉還により篠山藩知事に任じられた。同年、遠江国にあった1万石の藩領が、静岡藩に移された徳川家達の領土として組み込まれたため、代替地として丹波・但馬国国内で1万石を与えられている。

明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免職される。9月には東京へ移った。

明治6年(1873年)3月21日、死去。享年40。男子がなかったため、家督は弟の忠誠が継いでいる。

系譜

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脚注

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  1. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、317頁。ISBN 978-4-06-288001-5