難波田春夫
来歴・人物
編集兵庫県出身[1]。1934年、東京帝国大学経済学部卒業[2]。1935年、同大学経済学部助手となる[2]。東京帝国大学の土方成美の愛弟子である[3]。1939年の平賀粛学では同僚と共に辞表を提出するものの撤回、助教授に昇進する[2]。1945年11月4日、東京帝国大学経済学部教授会が難波田の退職を決定[4]したことを受け、同大学を辞職[2]。翌年、公職追放[2]。講談社の野間省一の協力を得て、講談社内に経済学研究所を設けて所長となる[2][5]。1951年の公職追放解除後、1952年に東洋大学教授に着任[2]。1954年、東京都立商科短期大学教授[2]、1966年 - 1978年まで早稲田大学社会科学部教授[2]。その後、高崎経済大学や大東文化大学の教授を歴任し[2]、関東学園大学や酒田短期大学では学長を務めた[1]。大学外では、1957年 - 1971年まで日本学術会議会員[2]、1975年には内外経済調査室理事長を務めた[1]。1991年9月1日死去[1]。享年85。
ヴェルナー・ゾンバルトの社会経済学をいち早く日本に紹介し、共同体に基づく統制経済を主張。その独特の主張には、学界のみならず財界や政界に少なからず支持者を獲得した。『国家と経済』に感銘した読者の一人であった慶応大生の伊藤淳二(元カネボウ会長)が、太平洋戦争(大東亜戦争)出征前に難波田(当時東京帝大助教授)を訪問して教えを請い、以後私淑した[要出典]。
主な著作
編集- 『国家と経済』 第1巻〜第5巻(日本評論社、1938年 - 1943年)
- 『スミス・ヘーゲル・マルクス』(講談社、1948年/講談社学術文庫、1993年)
- 『国家と経済』(講談社、1953年)
- 『国家と経済 近代社会の論理学』(前野書店、1969年)
- 『社会科学研究』(前野書店、1969年)
- 『日本経済研究』(前野書店、1970年)
- 『経済社会学研究』(前野書店、1971年)
- 『近代日本社会経済思想史』(前野書店、1973年)
- 『難波田春夫著作集』(全10巻、早稲田大学出版部、1982年 - 1983年)
- 1 社会哲学序説
- 2 スミス・ヘーゲル・マルクス
- 3 危機の哲学
- 4 経済学革新の道
- 5 日本経済構造の原理的考察
- 6 国家と経済
- 7 近代日本社会経済思想史
- 8 日本経済への警告
- 9 共同体の理論
- 10 ゾンバルト ドイツ社会主義
- 『近代の超克』(行人社、1992年)
- 『難波田春夫先生回顧録50年史』高崎経済大学、2013年 私家本
論文
編集脚注
編集- ^ a b c d “難波田春夫先生について”. masakatu tamura. 田村正勝. 2021年12月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k 手塚真「難波田春夫の経済思想 敗戦の前と後-ドイツ社会的市場経済研究を中心に-」『帝京大学外国語外国文学論集』第21巻、帝京大学第2外国語部会、2015年、67-111頁。
- ^ “独立不羈の男・河合栄治郎(56)その生涯編・赤門人民戦線”. 産経新聞. (2016年8月20日). オリジナルの2016年12月9日時点におけるアーカイブ。
- ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、346頁。ISBN 4-00-022512-X。
- ^ “軍国主義者は排除せよ…追い込まれた講談社「窮余の一策」とその失敗(魚住 昭) @gendai_biz”. 現代ビジネス. 2021年12月9日閲覧。
- ^ 難波田春夫先生について