阿部正恒
阿部 正恒(あべ まさつね)は、上総佐貫藩の第8代(最後)の藩主。佐貫藩阿部家9代。
時代 | 江戸時代後期(幕末) - 明治時代 |
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生誕 | 天保10年9月29日(1839年11月4日) |
死没 | 明治32年(1899年)10月11日 |
改名 | 倫三郎(幼名)、正恒 |
官位 | 従五位下、因幡守、駿河守、従三位 |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 阿部氏 |
父母 | 父:阿部正身 |
妻 |
正室:五島盛成の四女・朝子 継室:鍋島直紀の二女(鍋島直大の養女)・篤子 |
子 |
正敬、 娘(五島盛主正室)、娘(真田幸世正室) |
生涯
編集天保10年(1839年)9月29日、第7代藩主阿部正身の妾腹の長男(庶長子)として生まれる。嘉永7年(1854年)閏7月25日、父の隠居により家督を継ぎ、12月に従五位下・因幡守に叙任される。
安政5年(1858年)の徳川家茂将軍就任式に列席してその様子を「勤書」として書き残している(国立史料館所蔵「阿部家文書」所収)翌6年(1859年)8月に竹橋門番に任じられ、12月に江戸城本丸普請を担当した。後に日光祭礼奉行代にも任じられている。元治元年(1864年)7月に駿河守に遷任する。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、旧幕府軍の脱走兵で構成された徳川義軍府に対して援軍を送り、これに反対した家老を粛清するなどして新政府と敵対したが、敗退して新政府に武器弾薬を差し出して降伏し、勝隆寺で謹慎を命じられた。そして10月に罪を許されている。
明治2年(1869年)6月、版籍奉還により佐貫藩知事に任じられ、明治4年(1871年)5月に佐貫城は廃城となった。7月の廃藩置県で知藩事を免職される。1881年(明治14年)7月5日に隠居し、家督は嗣子の正敬が継承した[1]。
1899年(明治32年)10月に従三位に昇叙されたが、同月に死去した。享年61。
系譜
編集父母
- 阿部正身(父)
- 服部氏 ー 側室(母)
正室
- 五島朝子 ー 五島盛成の四女
子女
脚注
編集- ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻、43頁。
参考文献
編集- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。