長谷川テル
長谷川 テル(はせがわ てる、1912年3月7日 - 1947年1月10日[1][2]ないし1月14日[3][4](文献により異なる)は、日本のエスペランティスト、反戦・反帝国主義運動家。
生涯・人物
編集本名は長谷川照子(はせがわ てるこ)。筆名は緑川英子(みどりかわ えいこ)。エスペラント名は Verda Majo (ヴェルダ・マーヨ:緑の五月)。父は土木技師。女優の吉永小百合の母和枝とその妹の評論家川田泰代は遠縁にあたる。
山梨県大月市に生まれる。1929年、東京府立第三高女(現在の東京都立駒場高等学校)を卒業後、奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)に進学。学内で文化サークルを同級生と伴に作り、エスペラントを学ぶ。1932年、左翼 組織の疑いをかけられ検挙される。数日間の拘留を受け、大学を自主退学。タイプライターの教習所に通い卒業。
1933年、財団法人日本エスペラント学会で無給タイピストとして働き、日本エスペラント文学研究会の会員になる(「日本エスペラント文学」創刊に参加)。1934年、NHKアナウンサーの第一次試験に合格、前歴による不採用を予想して第二次試験には出頭せず。1935年、上海エスペラント協会誌『ラ・モンド(La Mondo)』に「日本における婦人の状態」を書く。1936年、雑誌『世界の子ども』に協力、エスペラントで『日本史』を書き外国での出版の試みに失敗、満州国から東京高等師範学校に留学していた劉仁(リウ・レン)と結婚。
1937年、日本を去り上海でエスペラント発表50年祭に参加、その後広州へ行く。1938年広東国際協会ができ、エスペラント部で働き始める。日本へのエスペラント等による反戦文書の流し込みを行っていたが、思わぬ疑いを受け、スパイ容疑で香港に追放される。新華日報に『愛と憎しみ』を翻訳。国民党中央宣伝部国際宣伝処対日科で崔万秋の下で抗日放送に従事。日本の都新聞(現在の東京新聞)により「嬌声売国奴」として評される。1941年、石川達三著『生きている兵隊』のエスペラントでの翻訳。国際宣伝処から政治部文化工作委員会へ転属。長男・劉星(リウ・シン)出産。『あらしの中からささやく声 (Flustr‘ el uragano )』出版。1945年、『戦う中国で (En Ĉinio Batalanta)』を出版。1946年、長女・劉暁嵐(リウ・シャオラン、長谷川暁子)出産。瀋陽で長谷川兼太郎の家を間借りする。長谷川兼太郎が日本に帰国しテルの消息を家族に伝える。ハルビンで東北行政委員会編審委員会に勤務。
第三子を妊娠するも、産み育てる余裕のないことからジャムスで妊娠中絶手術を受けるが、1947年1月10日ないし1月14日(冒頭の注釈参照、死因はどの文献でも共通)感染症で死去。同年4月22日には劉仁も肺水腫で死去。二人はジャムス烈士陵園に葬られ、墓碑には「国際主義戦士緑川英子と劉仁同志の墓」と刻まれている。
二人の間には6歳の長男・劉星と生後10か月あまりの長女・劉暁嵐の兄妹が残された。二人は革命烈士の遺児として中国政府の保護を受け、劉星は公主嶺に住む劉仁の弟・劉維宅で、劉暁嵐はハルビンの孤児院で育つ。劉星は北京大学に合格するが、文化大革命の煽りを受けて四川省江油に下放される。80年代に北京へ戻り、北京工業学院物理学部の講師になる。1年間日本に留学も経験。だが、1996年、がんのため北京で死去。享年55。劉暁嵐は唐山鉄道学院を卒業後、鉄道省の北京二七機廠職工大学の数学講師となったのち、日中科学技術交流協会の協力で、電気通信大学、奈良女子大学、福島大学に留学した[5]。1993年2月に日本国籍を取得し、長谷川暁子と名乗った[6]。
テルの人生をテレビドラマ化した1980年の日中共同制作『望郷の星』(テレパック、TBS、中華人民共和国中央広播事業局)では、栗原小巻がテルを、中国人俳優の高飛(ガオ・フェイ)が劉仁を演じた[5]。
テルの思想
編集著書
編集- 宮本正男編 『長谷川テル作品集』(1979年に出版、エスペラント著作の日本語訳を収める)
- Verkoj de Verda Majo (中国で1982年に出版されたエスペラントの著作集)
脚注
編集参考文献
編集- 宮本正男編『日本平和論体系 第17巻』
- 高杉一郎著『中国の緑の星 長谷川テル 反戦の生涯』 朝日新聞社、1980年
- 「長谷川テル」編集委員会編『長谷川テル―日中戦争下で反戦放送をした日本女性』 ISBN 488416167X