郷目貞繁
1497-1577, 戦国時代の武人画家
郷目 貞繁(ごうのめ さだしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士・画家。寒河江氏の家臣。右京進または石見守・石州を称する[1]。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 明応6年(1497年) |
死没 | 天正5年(1577年) |
官位 | 右京進、石見守 |
主君 | 寒河江孝広→広種→兼広 |
氏族 | 大江氏族郷目氏 |
子 | 河内 |
概要
編集寒河江氏の家臣で、物頭を務めたという。永正17年(1520年)6月に伊達稙宗が最上氏領の出羽国高擶城を攻めた際、捕虜の中に寒河江氏の家臣が7名おり[2]、その内の一人として「郷目右京進」の名が見出だせるのが文献上の初出である。捕虜として米沢、桑折で5年を過ごした後釈放され、大永4年(1524年)寒河江に戻る。
その後の消息は不明だが、絵の修業のため京に上った[3]。数年を経て寒河江に戻り寒河江氏の家臣の傍ら、画業に励む。
永禄8年(1565年)、京との繋がりからか、零落した政所代・蜷川親世が落ち延びて柴橋に逼塞し、永禄12年(1569年)に死去した。
画風
編集一般に武人画家は、水墨画の作品が多く画域も狭いのが一般的であるが、貞繁は人物・山水・花鳥・仏画など画題が豊富、写実的で着色画も描いている。作品からは、夏珪風の宋元画法や雪舟流など幅広い古典画学習の成果が窺われ、単なる地方画家ではなく、京に上って本格的に画技を身に付けた形跡が窺える。遺作は故郷の山形県を中心に、20数点残っている。
代表作
編集作品名 | 技法 | 形状・員数 | 所有者 | 年代 | 落款 | 備考 |
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瀟湘八景画巻 | 紙本墨画淡彩 | 1巻 | 個人蔵 | 享禄2年(1529年) | 江目右京貞繁(花押) | 山形県指定文化財(絵画) |
釈迦出山之図 | 絹本著色 | 3幅対 | 個人蔵 | 天文6年(1537年) | 3幅各々に款記「大江末葉郷目貞繁」、印章「江目」壺形朱文印 | 山形県指定文化財(絵画) |
神馬図絵馬 | 板絵貼著色 | 2面 | 慈恩寺(寒河江市) | 永禄元年(1558年)4月5日 | □目右京進貞繁 | 寒河江市指定文化財 |
神馬図絵馬 | 板絵著色 | 1面 | 若松寺(天童市) | 永禄6年(1563年)9月13日 | 寒河江内郷目右京進貞繁(花押) | 重要文化財。絵馬左上の墨書から、貞繁自身が妻女の菩提を弔うため奉納した事が判明する。 |
羅漢図 | 紙本著色 | 2幅 | 法体寺(天童市) | 印章「江目」壺形朱文印 | 寒河江市の長泉寺にも同様の羅漢図が1幅あり(市文)、元は「十六羅漢図」16幅で一具を成していたと考えられる。 |
逸話
編集脚注
編集- ^ 『寒河江市史 上巻』p.880「毛利出羽守大江高基家中覚」
- ^ その他、高屋修理亮、同宮内少輔廣春、富沢太郎三郎、安彦薩摩、安彦内匠助、鈴木讃岐「伊達正統世次考(巻之8)稙宗記」『寒河江市史 上巻』p.17
- ^ 京都の狂言大夫、小原安常が天文10年(1541年)と天文23年(1554年)に慈恩寺へ札を納めているが、その後弘治3年(1557年)京都より貞繁の絵を実相坊宛てに送ったことから、京へ上ったことは確実視される(山形県教育庁「山形の宝検索navi」紙本墨画芦雁図)。
- ^ 「寒河江高基公家中附覚」郷之目河内 脇書 御用人絵師兼而『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.329
- ^ 山形県指定文化財 天然記念物。山形の宝検索naviお達磨のサクラ(山形県教育庁)
- ^ 山形新聞社(2003,pp.31)
出典
編集- 展覧会図録
- 史料集
- 寒河江市市史編さん委員会 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001年
- 新関昭男・安彦好重『やまがた 地名伝説 第1巻』山形新聞社、2003年。
外部リンク
編集- 山形の宝検索navi(山形県教育庁)
関連項目
編集- 雪村 - 同時代の東国で活躍した武家出身の画僧。貞繁と比較される事もあるが、両者に直接の繋がりは認められない。