那須資実
那須 資実(なす すけざね)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。那須氏(下那須家)当主。下野国烏山城主。
時代 | 室町時代後期 - 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 明応3年1月24日(1494年3月1日)[1] |
別名 | 太郎 |
戒名 |
玄利院傑山道英[2]/傑山道無[3] 傑山道英玄利院[4] |
官位 | 伊予守[5] |
氏族 | 那須氏(下那須家) |
父母 | 父:那須資持 |
兄弟 | 資実、興野持隆 |
妻 | 那須明資娘 |
子 |
資房、武茂氏[6]/茂木氏[4]室、佐竹氏義室[6]、稲澤播磨守室[6]、木須頼実[4]、 資衡[6]、資仲[6] |
下那須家当主・那須資持の子として誕生。上那須家との対立は続いていたが、文明4年(1472年)に白河結城氏の結城直朝の仲介により上那須家当主・那須明資の娘を室に迎えるなど関係の修復に努めた。同年、古河城を追われた古河公方・足利成氏の古河復帰に結城氏広や千葉孝胤と共に協力し成し遂げた。
脚注
編集出典
編集- 『那須系譜』
- 『那須七系』
- 『寛政重修諸家譜』(七百三十五)
- 『那須記』
- 『那須系図』
- 『寛永諸家系図伝』(那須)