遊佐町

山形県飽海郡の町

遊佐町(ゆざまち)は、山形県の最北部に位置し、日本海に面する人口約1万2千人の飽海郡に属する唯一の自治体である。

ゆざまち ウィキデータを編集
遊佐町
遊佐町旗 遊佐町章
遊佐町旗 遊佐町章
1970年6月22日制定
日本の旗 日本
地方 東北地方
都道府県 山形県
飽海郡
市町村コード 06461-1
法人番号 9000020064611 ウィキデータを編集
面積 208.39km2
総人口 11,752[編集]
推計人口、2024年12月1日)
人口密度 56.4人/km2
隣接自治体 酒田市
秋田県由利本荘市にかほ市
町の木 クロマツ
町の花 チョウカイフスマ
遊佐町役場
町長 松永裕美
所在地 999-8301
山形県飽海郡遊佐町遊佐字舞鶴202番地
北緯39度00分53秒 東経139度54分32秒 / 北緯39.01481度 東経139.90881度 / 39.01481; 139.90881座標: 北緯39度00分53秒 東経139度54分32秒 / 北緯39.01481度 東経139.90881度 / 39.01481; 139.90881
外部リンク 公式ウェブサイト

遊佐町位置図

― 市 / ― 町・村

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地理

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庄内平野の北端に位置し、山形県の最北端に位置する自治体でもある。北には東北地方第二の標高を誇る鳥海山が聳え、中央部には肥沃な庄内平野が広がり、町全体をなだらかに横切るようにして月光川が流れる。町南部の海岸線には砂浜が広がり、夏には釜磯海水浴場西浜海水浴場などで海水浴を楽しめる。北部海岸線は鳥海山から流れ込んだ溶岩による岩礁が広がっており、良い漁場となっている。

町内には湧水や自噴井戸が多く、1996年(平成8年)に国土庁(現国土交通省)「水の郷百選」に認定されている[1]

歴史

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旧青山家住宅(旧青山本邸、国の重要文化財

遊佐の地名が歴史に登場するのは延長5年(927年)の『延喜式』二十八、兵部省、諸国駅馬の項にある出羽国駅馬「遊佐 十疋」という記述である[2]。また、承平7年(937年)の『和名類聚抄』にも「遊佐郷」とあり、千年以上前から文字も音もそのまま伝えられている珍しい例とされる[2]

久安4年(1148年)には関白藤原忠実が子の頼長に「遊佐荘」などを譲った記録があり、藤原摂関家の北限の荘園が立荘されていた[2]。その後、藤原基衡の荘園となった後、遊佐氏の荘園となり郡名に「遊佐郡」が用いられるようになった[2]

戦国期になると砂越氏板垣氏(石垣氏)、次いで大宝寺氏上杉氏最上氏がこの地を治めた。

江戸時代には庄内藩が置かれた。そして元和8年(1622年)に酒井忠勝が入部し、田川、櫛引、遊佐の三郡を統治した[2]

  • 酒井氏は入部直後に大規模な検地を行い、表石よりも実石を大幅に増やすことに成功したが、その増えた石高の分まで徴税にまわされた為に民衆は苦しんだ。寛永9年(1632年)、遊佐郷大肝煎高橋太郎左衛門が農民の離散の責を問われて解職・投獄される。翌年釈放されたがの暗殺計画を知り、弟の長四郎とともに江戸へ逃れ、寛永11年(1634年江戸幕府に藩の窮状を示した直訴状を提出する。そこには最上氏時代よりも年貢が二倍近くに増え、凶作でも通年どおりに治めねばならず、年貢を納めるために男女千人ほどが身売り・逃亡したと書かれていた。この直訴は幕府に受理され、以後太郎左衛門は大肝煎に復している。
  • 宝暦4年(1754年)、凶作。宝暦5年(1755年)、歴史的大飢饉(宝暦の飢饉)。
  • 天保7年(1836年)、青山留吉が遊佐郷青塚(現:同町比子青塚)に誕生する。留吉はその後後志国に渡り道内有数の漁業家に成長する。青塚には彼の偉業をたたえ、鰊御殿とも呼ばれる旧青山本邸が現存する。

沿革

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旧遊佐町役場(2014年7月)
  • 1889年明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い飽海郡遊佐町村、白井新田村、野沢村、吉出村、小田原村(一部)が合併し、遊佐村(ゆざむら)が発足。
  • 1941年昭和16年)4月1日 - 町制施行し遊佐町となる。
  • 1954年(昭和29年)8月1日 - 飽海郡遊佐町、稲川村西遊佐村蕨岡村高瀬村吹浦村が合併し、遊佐町を新設[2]
  • 1956年(昭和31年)
    • 1月1日 - 酒田市と境界の一部を変更。
    • 8月15日 - 酒田市と境界の一部を変更。
  • 2003年(平成15年)2月1日 - 酒田市と飽海郡4町(遊佐町、八幡町平田町松山町)で「庄内北部地域合併協議会(法定協議会)」を設置[3]
  • 2004年(平成16年)10月6日 - 協議の難航から協議会が休止(事実上の離脱)。その後残りの1市3町は新たに協議会を立ち上げ合併した。この合併の結果、遊佐町は飽海郡に属する唯一の自治体となった[3]
  • 2021年(令和3年)8月30日 - 町役場の新庁舎が完成し、遊佐町遊佐字舞鶴211番地から202番地に移転する[4]

行政

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町長

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氏名 就任 退任 備考
1 小野寺喜一郎 1993年(平成5年)3月19日 2009年(平成21年)3月18日 元町議会議員
2
3
4
5
1 時田博機 2009年(平成21年)3月18日 2024年(令和6年)2月10日 4期目途中で死去[5][6]
2
3
4
職務代行者 池田与四也 2024年(令和6年)2月10日 2024年(令和6年)3月23日 副町長
1 松永裕美 2024年(令和6年)3月24日 現職 元町議会議員

議会

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議会定数は12人である[7]

なお、2003年から町の中高生が投票で「少年町長」と「少年議員」を選出する少年議会が行われている[8]

産業・経済

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商業

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  • 本間物産 - 食品スーパーマーケット「マルホンカウボーイ」を運営する会社
  • 金龍 - 酒田市の酒造会社。2017年、町内にウイスキーの蒸留所を開設した。
  • マルハニチロ中央研究所遊佐試験場
  • 鳥海南工業団地

漁業

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郵便局

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金融機関

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姉妹都市

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国内
海外

なお、姉妹交流ではないが、英国ストラトフォード・アポン・エイヴォンと文化交流が盛んである[11]

地域

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人口

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遊佐町と全国の年齢別人口分布(2005年) 遊佐町の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 遊佐町
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
遊佐町(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年) 21,224人
1975年(昭和50年) 20,481人
1980年(昭和55年) 20,412人
1985年(昭和60年) 20,271人
1990年(平成2年) 19,705人
1995年(平成7年) 18,895人
2000年(平成12年) 18,037人
2005年(平成17年) 16,852人
2010年(平成22年) 15,480人
2015年(平成27年) 14,207人
2020年(令和2年) 13,032人
総務省統計局 国勢調査より


教育

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小学校
中学校
高等学校
特別支援学校

交通

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鉄道

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路線バス

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  • 遊佐町営バス - 現在はスクールバスのみ運行(臨時便を除き通学者以外の利用も可能)。
  • 遊佐町デマンドタクシー - 平日のみ運行。町内全域で利用可。

道路

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道の駅

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空港

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最寄の空港は庄内空港であり、町内から自動車で移動した場合の所要時間は約40分ほどである。

名所・史跡・祭事等

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龍頭寺
 
鳥海山大物忌神社山頂本殿

自然・公園

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史跡

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寺社仏閣

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温泉

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祭事・催事

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出身有名人

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郵便番号

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郵便番号999-83XX, 999-84XX, 999-85XXであり、郵便番号の数字が最大の市町村である。なかでも遊佐町 菅里 (999-8531) の番号がもっとも大きい。

脚注

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  1. ^ 丸池様・牛渡川・胴腹滝 - 遊佐鳥海観光協会、2024年9月19日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 遊佐町都市計画マスタープラン”. やまがた景観物語(山形県). 2024年8月21日閲覧。
  3. ^ a b 県内における市町村合併協議の経緯 (PDF) - 山形県庁企画振興部
  4. ^ 遊佐町役場新庁舎、完成を祝い竣工式 30日に開庁 - 2021年8月9日、山形新聞
  5. ^ 時田遊佐町長が死去 73歳 09年初当選 現在4期目”. 荘内日報社 (2024年2月11日). 2024年3月29日閲覧。
  6. ^ 時田博機町長のご逝去について — 遊佐町 2024年2月10日
  7. ^ 議会のしくみ - 遊佐町、2024年9月19日閲覧。
  8. ^ NHK政治マガジン(2022年6月24日)
  9. ^ 指定金融機関の指定について ‐ 遊佐町
  10. ^ 指定代理金融機関の指定について ‐ 遊佐町(2016年4月21日閲覧)
  11. ^ 松井 真理子「日英姉妹都市交流事情」 - 一般財団法人自治体国際化協会、2024年9月19日閲覧。
  12. ^ 富樫慧士 – バーニングプロダクション

参考文献

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  • 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。

関連項目

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外部リンク

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