遊佐幸平
遊佐 幸平(ゆさ こうへい、1883年7月25日 - 1966年11月25日)は、日本の陸軍軍人。「馬の神様」と称された馬術家であった。陸軍騎兵少尉として日露戦争に出征して戦功を挙げ、個人感状を授与された[1]。個人技としての馬術、調教にも優れたが、馬政方面でも功績があった。最終階級は陸軍少将。
遊佐 幸平 | |
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『御相随筆』著者近影(1932年) | |
生誕 |
1883年7月25日 大日本帝国・宮城県鳴子村湯元(現・大崎市鳴子温泉湯元) |
死没 | 1966年11月25日(83歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1904 - 1938 |
最終階級 | 陸軍少将 |
略歴
編集- 1883年(明治16年)- 宮城県鳴子村湯元(のち大崎市鳴子温泉湯元)に生まれる。
- 1901年(明治34年)7月 - 仙台陸軍幼年学校卒業(2期)。
- 1904年(明治37年)10月 - 陸軍士官学校卒業(16期)。
- 1904年(明治37年)11月 - 騎兵少尉。
- 1907年(明治40年)- 騎兵中尉。
- 1914年(大正3年)- 騎兵大尉。
- 1917年(大正6年)- 陸軍騎兵学校馬術教官。
- 1921年(大正10年)- 騎兵少佐。
- 1925年(大正14年)- 騎兵中佐。
- 1928年(昭和3年) - 1928年アムステルダムオリンピック馬場馬術個人28位。
- 1930年(昭和5年) - 騎兵大佐。
- 1932年(昭和7年) - 1932年ロサンゼルスオリンピック馬術役員。
- 1935年(昭和10年) - 少将。
- 1936年(昭和11年) - 1936年ベルリンオリンピック馬術役員。
- 1937年(昭和12年) - 軍馬補充部本部長。
- 1938年(昭和13年) - 予備役。満州国馬政局長。
- 1947年(昭和22年)11月28日 -公職追放仮指定を受けた[2]。
- 1952年(昭和27年) - 1952年ヘルシンキオリンピックの日本選手団馬術監督。
- 1955年(昭和30年) - 紫綬褒章受章。
- 1956年(昭和31年) - 1956年メルボルンオリンピックの日本選手団馬術団長。
栄典
編集著作
編集自著
編集- 『馬術及馬事』朝香屋書店、1921年4月4日(再版:菊地屋書店、1932年11月24日)
- 『遊佐馬術』羽田書店、1940年2月8日(再版:遊佐会〈前編・後編〉、1959年 / 第一出版、1966年)
- 『続・遊佐馬術』羽田書店、1943年11月20日
- 『御相随筆』菊地屋書店、1932年11月25日
- 『馬政局執務参考資料』満洲国馬政局、1941年6月
- 〈第5号〉「日本馬産ニ活躍セル中重種」
- 〈第6号〉「満洲国と「オルローフ・トロツター」」
- 〈第7号〉「ポスチエブルトン種」(兼松満造と共著)
- 〈第8号〉「満州の馬産」
- 『馬事論叢』羽田書店、1943年3月30日
- 『馬狂放談』那須書店、1958年12月5日
翻訳
編集- 『フィリス氏の馬術』春陽堂、1929年9月13日
出典
編集参考文献
編集- 松下芳男 編『山紫に水清き:仙台陸軍幼年学校史』仙幼会、1973年。
関連項目
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