連光寺
連光寺(れんこうじ)は、東京都多摩市にある地名。地番整理施行地区(連光寺一丁目~六丁目)と未施行地区(連光寺)があるが、本項目では両方取り上げる。郵便番号は連光寺一丁目~六丁目、連光寺共に206-0021[2]。
連光寺 | |
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北緯35度38分43.9秒 東経139度27分37.77秒 / 北緯35.645528度 東経139.4604917度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 東京都 |
市町村 | 多摩市 |
人口 | |
• 合計 | 9,602人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
206-0021[2] |
市外局番 | 042[3] |
ナンバープレート | 多摩 |
地理
編集地域内は地番整理施行地区(連光寺一丁目~六丁目)と地番整理未施行地区(連光寺)に分かれる。連光寺(地番整理未施行地区)は全域がゴルフ場(桜ヶ丘カントリークラブ、米軍多摩ゴルフ場)となっており、連光寺一・二・三・四・六丁目は主に住宅街、連光寺五丁目は、ほぼ全域が都立桜ヶ丘公園、多摩市立連光寺公園、多摩市立大谷戸公園などの公園施設となっている。また、一丁目に多摩市立連光寺小学校、桜ヶ丘記念病院がある。
東は一ノ宮・稲城市大丸、西は桜ヶ丘・馬引沢、南は聖ヶ丘・稲城市若葉台、北は関戸・多摩川を挟んで府中市南町と接している。
地価
編集住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、連光寺1丁目21番6の地点で17万2000円/m2となっている[4]。
連光寺という地名
編集この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
連か蓮か
編集かつて連光寺の「連」の字は、草かんむりをつけて「蓮」と書いた。鎌倉時代の吾妻鏡や江戸時代の新編武蔵風土記稿は、当地について「蓮光寺」と記している[5][6][7]。旧村社の春日神社の灯篭にも「蓮光寺村」という文字が彫られている[8]。
政府の公文書では、1882年の明治天皇地行幸に関する宮内省上申書が「蓮光寺村」の文字を用いており、この時点では蓮光寺と表記していたことが知れる[9]。その3年後の1885年には侍従らの出張届け公文書に「連光寺村」とあり、草かんむりが取れている[10]。この間、1883年1月に蓮光寺村周辺の明治天皇御遊猟場が「連光寺村御猟場」と命名されている[11]。この命名を機に草かんむりが取れたかは分からない。1881年の明治天皇行幸に随行して当地を訪れた山岡鉄舟は、連光寺村御猟場命名後の1884年に当地を「蓮光寺村」と書いている[12]。
大正時代になっても「蓮光寺」と表記されることがあり、近隣の府中町青年会が編纂した『武蔵国府名蹟誌』や、府中町で出版された『武蔵野みやげ 名勝案内』では「蓮光寺」と表記されていた[13]。2020年現在においても馬引沢二丁目(もと連光寺)にセブンイレブン多摩蓮光寺店が所在する[14]。
一説には江戸時代以前には「連光寺」で、江戸時代には「蓮光寺」を用いるようになったが、近代は元に還って「連光寺」が正しいとして公式に用いているという[12]。しかし江戸時代以前の吾妻鏡には「蓮光寺」とある[5]。
地名の由来
編集かつて江戸幕府が編纂した新編武蔵風土記稿は、蓮光寺という寺院について次のような説を述べていた。蓮光寺という寺院があった場所は分からないが、村内に下屋舗という小名があり、その辺りに寺坂と称する坂があって、恐らくはその辺りが寺の旧跡なのだろうといわれる。下屋舗という小名は村の東の山丘の処にある。丘の上は平らで、古い墳墓が大小様々50~60基も散在している。戦死者の墳墓だという説もあるが、ここが蓮光寺の跡だという説もある。寺の廃絶時期については、吾妻鏡に蓮光寺が地名として現れているようであるから、鎌倉時代には既に廃寺となっていたと考えられる。以上が新編武蔵風土記稿の説である[7]。
昭和戦前期に連光寺の聖蹟化に関わった人物は、1930年の著書で、連光寺は寺院の名のようであって寺院はなく、連光寺の地名の由緒は不明である、と述べている[12]。
多摩市役所が2015年に広報誌に掲載し公式ウェブサイトにも転載している記事は、連光寺という寺院について、上記の新編武蔵風土記稿の説を一部引用しつつ、「確かなことは不明」とぼかしている。また、寺坂や仏道(ほとけみち)などの地名が高西寺(連光寺一丁目)の近くにあったと述べているが、それが蓮光寺という寺院に関連する地名なのかを明言していない[5]。
歴史
編集多摩ニュータウン開発に伴う区画整理事業などが行われ、一部が聖ヶ丘、諏訪、馬引沢などに分離した。
沿革
編集- 1868年(明治元年) 武蔵県知事の管轄となる。
- 1871年(明治4年)旧暦11月 神奈川県の管轄となり、神奈川県多摩郡蓮光寺村となる。
- 1873年(明治6年)5月1日 区番組制により、第八大区九番組となる。
- 1874年(明治7年)4月15日 大区小区制により、第八大区八小区となる。
- 1878年(明治11年)
- 1894年(明治17年)6月30日 連合戸長役場制により、連光寺を含む現在の多摩市(落川を除く)の連合戸長役場を関戸村に設置。
- 1889年(明治22年)4月1日 一ノ宮村、落合村、貝取村、乞田村、関戸村、東寺方村、和田村、及び落川村飛地、百草村飛地と合併し、南多摩郡多摩村大字連光寺となる。
- 1893年(明治26年)4月1日 神奈川県のうち、東多摩郡、西多摩郡、南多摩郡、北多摩郡を東京府に編入。東京府南多摩郡多摩村大字連光寺となる。
- 1943年(昭和18年)7月1日 東京都制により、東京都南多摩郡多摩村大字連光寺となる。
- 1955年(昭和30年)連光寺北部多摩川内の小字、下川原、中島が府中市に編入。
- 1964年(昭和39年)4月1日 町制施行により、多摩町大字連光寺となる。
- 1971年(昭和46年)4月1日 市制施行により、多摩市連光寺となる。
小字
編集ここでは、かつての連光寺の小字と現地名との対照を示す。
- 本村(ほんむら)
連光寺一丁目~三丁目、聖ヶ丘一丁目 - 大谷戸(おおのやと)
連光寺二・三・五丁目、聖ヶ丘一・二丁目 - 打越(うちこし)
連光寺二・五丁目、聖ヶ丘一丁目 - 南田(みなみだ)
聖ヶ丘一丁目、連光寺二丁目 - 諏訪坂(すわのさか)
聖ヶ丘一・二丁目、馬引沢一・二丁目 - 諏訪越(すわのこし)
諏訪一丁目、馬引沢一丁目 - 馬引沢(まひきざわ)
諏訪一・三・四丁目、馬引沢一・二丁目、聖ヶ丘二~四丁目 - 沖谷戸(おきのやと)
諏訪三・五・六丁目 - 乗越(のりごえ)
諏訪四・六丁目、聖ヶ丘三~五丁目 - 中尾根(なかおね)
聖ヶ丘一~三丁目、連光寺五丁目 - 天井返(てんじょうがえし)
聖ヶ丘三丁目~五丁目、連光寺五丁目 - 山ノ越(やまのこし)
連光寺三~五丁目 - 向の岡(むかいのおか)
連光寺一・三・四丁目 - 中島(なかじま)
関戸三丁目 - 下川原(しもがわら)
府中市南町四丁目付近、多摩川東端。 - 二子沢(ふたござわ)
ゴルフ場。稲城市との市境付近。 - 大水上(おおみずあがり)
桜ヶ丘カントリークラブ。 - 瓦ヶ谷(かわらがや)
連光寺三・四丁目、米軍多摩ゴルフ場。 - 船ヶ台(ふながだい)
米軍多摩ゴルフ場、連光寺五・六丁目、聖ヶ丘三・四丁目
世帯数と人口
編集2018年(平成30年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
連光寺一丁目 | 1,618世帯 | 3,786人 |
連光寺二丁目 | 1,009世帯 | 2,483人 |
連光寺三丁目 | 795世帯 | 1,730人 |
連光寺四丁目 | 267世帯 | 565人 |
連光寺五丁目 | 144世帯 | 273人 |
連光寺六丁目 | 366世帯 | 765人 |
計 | 4,199世帯 | 9,602人 |
小・中学校の学区
編集市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[15]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 | 備考 |
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連光寺一丁目 | 2番地の1 | 多摩市立多摩第一小学校 | 多摩市立多摩中学校 | 特例地区により以下の学校と選択可能。 ・多摩市立連光寺小学校 ・多摩市立聖ヶ丘中学校 |
2番地(の1を除く) 4番地 |
||||
その他 | 多摩市立連光寺小学校 | 多摩市立聖ヶ丘中学校 | ||
連光寺二丁目 | 全域 | |||
連光寺三丁目 | 全域 | |||
連光寺四丁目 | 全域 | |||
連光寺五丁目 | 1~7番地 17~18番地 | |||
その他 | 多摩市立聖ヶ丘小学校 | |||
連光寺六丁目 | 全域 |
施設
編集- 多摩市立連光寺小学校
- 農業者大学校多摩校舎
- 多摩森林科学園連光寺実験林
- 都立桜ヶ丘公園
- 多摩市立連光寺公園
- 多摩市立大谷戸公園
- 桜ヶ丘記念病院
- 多摩中央病院
- 桜ヶ丘カントリークラブ
- 多摩サービス補助施設(米軍多摩ゴルフ場)
- 永山中継局(多摩ガバナーステーション内)
関連項目
編集脚注
編集- ^ a b “市の人口データ(町丁目別人口・世帯数)”. 多摩市 (2018年1月11日). 2018年1月14日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2018年1月14日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2018年1月14日閲覧。
- ^ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査
- ^ a b c 「連光寺の町名由来板」『たま広報』平成27年12月5日号、“シリーズ ぶらTAMAアート”(多摩市役所. 2020年9月15日閲覧) に所載。
- ^ 『吾妻鏡』養和元年(治承五年)辛丑四月廿日条、NDLJP:1920980/40。
- ^ a b 『新編武蔵風土記稿』巻98多摩郡10日野領○蓮光寺村、NDLJP:1214850/57。
- ^ “多摩市連光寺 春日神社”. 多摩丘陵の自然と多摩市周辺の歴史と文化. 2020年10月7日閲覧。
- ^ 「神奈川県下武州多摩郡蓮光寺村辺ニ行幸」『公文類聚』第6編、明治15年、第6巻、明治15年2月14日条、国立公文書館蔵。
- ^ 「侍従米田虎雄外一名御用ニ付神奈川県下連光寺村辺ヘ出発ノ件」『公文録』第142巻、明治18年3月、官吏雑件(太政官~府県)、国立公文書館蔵。
- ^ 吉岡拓・清水裕介『《近代多摩川と皇室》鮎献上と多摩地域の聖蹟化に関する歴史学的研究』公益財団法人とうきゅう環境財団〈研究助成・学術研究 VOL.46 No.328〉、2018年 。 7頁。
- ^ a b c 児玉四郎『明治天皇の御杖』東山書院、1930年、160-161頁。NDLJP:1192731/104。
- ^ 「蓮光寺」『武蔵国府名蹟誌』NDLJP:955191/139。「蓮光寺」『武蔵野みやげ 名勝案内』NDLJP:964897/18。
- ^ セブンイレブン店舗検索で「多摩蓮光寺」を検索。
- ^ “通学区域(就学する学校の指定)”. 多摩市 (2017年4月1日). 2018年1月14日閲覧。
参考文献
編集- 多摩市の町名(市制施行20周年記念)1992年 多摩市
- 角川日本地名大辞典 13 東京都(角川書店)