近江谷栄次
近江谷 栄次(おうみや えいじ、1874年(明治7年)1月20日[1] - 1942年(昭和17年)6月8日[1])は、日本の実業家、衆議院議員。号は井堂。秋田県出身。小牧近江(翻訳家・社会運動家)、島田晋作(衆議院議員[2])は子。
略歴
編集秋田県南秋田郡一日市村[3](現八郎潟町)の生まれ[4]。旧姓名は畠山留吉[1][5] 。16歳のとき、土崎港(現在の秋田市土崎港)の商人近江谷家の養子となる[4]。最終学歴は、秋田中学校中退[5]。1889年(明治22年)栄治(のちに栄次)の名を襲名[5]すると、20代の青年にして地元経済の基盤作りに取り組み始める。
私財を投じての秋田港改修工事は、13年かかって1902年(明治35年)に終了[4]。改修後の港は近江谷が招請した廣井勇[5]にちなんで「廣井波止場」[6]と名づけられたが、「近江谷波止場」[4]とも呼ばれた。
1896年(明治29年)、旧秋田銀行の設立に参加[1][5]。
1901年(明治34年)には、秋田県で初の火力発電所(近江谷発電所)を現在の秋田市立土崎南小学校の位置に建設[4][5]。燃料は石炭を用い、60キロワットの電力供給を開始した[7]。供給範囲は土崎地区内にとどまらず、通町、大町といった秋田市中心部にも及んだ[7]。
また、1908年(明治41年)に操業開始した国鉄の工場(現在の秋田総合車両センター)の誘致では、自家所有地3万坪を無償提供した[4][5]。
一方、政治家としては、土崎港町会議員、南秋田郡会議員、秋田県会議員を歴任[8]。1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙に秋田県郡部区から出馬して初当選し[5]、以来、2期務めた[1]。1910年(明治43年)、ブリュッセルで開催の第1回万国議員会議に出席[5]。
エピソード
編集1910年、万国議員会議に向かう際、子の小牧近江を帯同。これが小牧がパリ大学を卒業し、帰国後に社会運動に身を投じるきっかけとなった[10][11]。
関連書
編集- 小牧近江編『近江谷井堂』近江谷小牧、1971年。 ASIN B000J9GZWY
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。