藤田敏郎 (外交官)

日本の外交官

藤田 敏郎(ふじた としろう、1862年8月1日文久2年7月6日[1] - 1937年昭和12年)1月29日[2])は、明治大正日本外交官。初代シンガポール領事や、ロンドン総領事サンパウロ総領事等を務めた。

人物

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岡山県津山市出身[3]。父は津山藩士・渡邊政。明治維新後に没落し藤田家に養子入りした。英語などを学び[4]商法講習所(現一橋大学)卒業[5][6]共同運輸会社入社後、母校商法講習所の矢野二郎校長の勧めで、1885年に外務書記生となった。翌1886年から在ホノルル日本領事館勤務[5]

1888年から在サンフランシスコ日本領事館書記生を務め[5]、在任中メキシコでの日本人殖民地建設を建議し、1891年に中南米初の日本領事館がメキシコに開設されると初代領事代理として赴任した[7]。1895年ペナンマラッカ二等領事[8]。1896年シンガポール二等領事[9]

1897年ジャワ二等領事兼轄[10]。同年在シャム公使館二等書記官、バンコク一等領事[11]。1899年カナダ東部地方一等領事兼轄[12]。1906年ボンベイ領事[13]。1910年在ブラジル日本公使館一等書記官、リオデジャネイロ領事[14]。1911年在ブラジル日本公使館臨時代理公使[15]。1913年待命・外務大臣官房会計課長心得[16]、文官普通試験委員、文官普通懲戒委員[17]

1914年日本専管居留地経営事務監督官[18]。1916年ロンドン総領事[19]。同年待命・外務大臣官房会計課長心得[20]、外務大臣官房文書課長心得[21]。1917年外務省所管事務政府委員[22]。1920年サンパウロ総領事[23]。1923年依願退官[24]

親族

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作曲家の伊東乾東京大学大学院情報学環教授は曾孫[25]

著書

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栄典

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脚注

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  1. ^ 『人事興信録 5版』人事興信所、1918年、ふ15頁。
  2. ^ 『昭和物故人名録 : 昭和元年~54年』日外アソシエーツ、1983年、p.429。
  3. ^ 山口平治 編『岡山県人海外発展略史』 岡山県海外協会、1941年
  4. ^ 教育勅語制定の背景にあったハワイ王国の滅亡不平等条約から滅亡へ至った王国史が劇薬を作らせたJBPress2017.3.28(
  5. ^ a b c 角山幸洋著榎本武揚とメキシコ殖民移住(1)関西大学『経済論集』第34巻第6号
  6. ^ 東京高等商業学校一覧 明治25-26年
  7. ^ 柳沼 孝一郎ディアス政権の産業振興・殖民政策と日本人移民~メキシコのコーヒー産業と日本人殖民構想の史的背景~ラテン・アメリカ論集/33 巻 (1999)
  8. ^ 官報 1895年05月25日
  9. ^ 在シンガポール領事館|アジ歴グロッサリー」、2023年3月28日閲覧。
  10. ^ 官報 1897年05月20日
  11. ^ 官報 1897年10月13日
  12. ^ 官報 1899年05月06日
  13. ^ 官報 1906年09月03日
  14. ^ 官報 1910年10月03日
  15. ^ 日本外交史, 第 37 巻 632ページ
  16. ^ 官報 1913年11月03日
  17. ^ 官報 1913年11月05日
  18. ^ 官報 1914年08月26日
  19. ^ 官報 1916年10月16日
  20. ^ 官報 1916年12月02日
  21. ^ 官報 1916年12月27日
  22. ^ 官報 1917年06月23日
  23. ^ 移民と共に歩む在聖総領事館=一世紀前の設立経緯追う=初代総領事と平野植民地の絆ニッケイ新聞2015年8月4日
  24. ^ a b 元総領事藤田敏郎特旨叙位ノ件
  25. ^ 教育勅語制定の背景にあったハワイ王国の滅亡不平等条約から滅亡へ至った王国史が劇薬を作らせたJBPress2017.3.28
  26. ^ 官報 1886年09月27日
  27. ^ 官報 1897年11月22日
  28. ^ 官報 1898年12月28日
  29. ^ 福岡県書記官 山田揆一外九十四名叙位ノ件〇領事加藤本四郎外九名、台湾総督府法院判官桜庭常陰、大蔵省理財局長 水町袈裟六外四名、判事池田覚三外四名、大林区署技師山根亀吉外十二名、海事官伊藤宅治外二十二名
  30. ^ 官報 1907年08月22日
  31. ^ 公使館一等書記官藤田敏郎外十九名叙位ノ件/判事谷野格外三名、逓信局長杉精三外七名、陸軍技師門岡速雄外四名、専売局参事補堺田田鶴太外一名
  32. ^ 判事柳沢重固外十一名叙位ノ件/総領事藤田敏郎