藤原経衡
大学頭、大和守、甲斐守
藤原 経衡(ふじわら の つねひら、寛弘2年(1005年) - 延久4年6月20日(1072年7月8日))は、平安時代中期から後期にかけての貴族・歌人。藤原北家真夏流、甲斐守・藤原公業の子。官位は正五位下・大和守。
経歴
編集後一条朝で蔵人所雑色を経て、長元4年(1031年)六位蔵人に補せられる。長元6年(1033年)左近衛少将・藤原資房と殿上にて乱闘に及び、経衡は殿上を除籍された。のち、大学頭や、甲斐守・筑前守・大和守などの受領を歴任し、位階は正五位下に至った。
人物
編集和歌六人党の一人。勅撰歌人として『後拾遺和歌集』(8首)以下の勅撰和歌集に16首が入集[1]。家集に『経衡集』があるほか、『経衡十巻抄』(散逸)を撰集した[2]。治暦4年(1068年)後三条天皇の大嘗会において和歌を詠む[2]。『権大納言源師房家歌合』『左京大夫道雅障子絵合』『祐子内親王家歌合』などに出詠した。
官歴
編集系譜
編集『尊卑分脈』による。