藤原家長
平安時代後期の公家
藤原 家長(ふじわら の いえなが)は、平安時代後期の公家。藤原北家末茂流、参議・藤原家保の子[1]。官位は正四位下・刑部卿。
時代 | 平安時代後期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
官位 | 正四位下、刑部卿 |
主君 | 鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇 |
氏族 | 藤原北家末茂流 |
父母 | 父:藤原家保、母:不詳 |
兄弟 | 顕保、家成、家長、保説、保成、家房、宗保、頼保、覚芸、藤原忠宗室、源雅通室 |
妻 | 不詳 |
子 | 家輔、隆雅 |
経歴
編集元永元年(1118年)白河院判官代と鳥羽天皇の蔵人に任ぜられる[2]。美濃国・土佐国・備中国などの国司を歴任後、久寿3年(1156年)能登守に任ぜられる[3]。
また、藤原忠実・頼長父子に近侍し、その外出の際にはしばしば前駆を務めている[4]。その関係からか保元元年(1156年)の保元の乱においては崇徳上皇方に参じたとされ、『保元物語』においては乱の後に出家・降伏した公家の中にその名が見える。ただし、その際の処罰を含め、その後の具体的な動静については不明であるが、乱を通じて能登守の官職を解任されたらしく、乱後の9月の除目では藤原基家が能登守に任ぜられている[5]。
逸話
編集実家の善勝寺流(六条家流)は庖丁道を伝える家柄であり、家長も鳥羽院の御前の酒宴において包丁人を務め、魚を捌いた際の逸話が『古事談』に見える[6]。
系譜
編集『尊卑分脈』による。
脚注
編集出典
編集- 生井真理子「古事談-連繋を読む」『同志社国文学 第43号』同志社大学国文学会、1996年