菊池城
菊池城(きくちじょう)は、熊本県菊池市隈府にあった中世の日本の城(山城)。菊池氏の本拠であった。別名隈府城。
菊池城 (熊本県) | |
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菊池城全景 | |
別名 | 隈府城、守山城、雲上城 |
城郭構造 | 梯郭式平山城 |
天守構造 | 無し |
築城主 | 菊池武政 |
築城年 | 正平年間(1346年 - 1370年) |
主な城主 | 菊池氏、赤星親家、隈部親永 |
廃城年 | 天正15年(1587年) |
遺構 | 郭、堀、土塁 |
位置 | 北緯32度59分12.717秒 東経130度49分3.3306秒 / 北緯32.98686583度 東経130.817591833度座標: 北緯32度59分12.717秒 東経130度49分3.3306秒 / 北緯32.98686583度 東経130.817591833度 |
地図 |
変遷
編集菊池十八城と呼ばれる城砦の一つで、正平年間に菊池武政により築城された[1]。菊池氏は九州における南朝方の有力者で、後に肥後守護に任じられ現菊池市は城下町として栄えた。戦国時代に入ると菊池氏は内紛を繰り返し、近隣大名による家督介入を受けて衰退し、家督を阿蘇氏や豊後大友氏に奪われ、菊池氏正統は没落した。
後、菊池氏の一族で菊池三家老の赤星親家が城主となるが、同じ菊池三家老の隈部親永に圧迫され、天正6年(1578年)親家の子赤星統家の時、龍造寺氏と結んだ親永によって赤星氏は菊池城を追われた。天正8年(1580年)親永が入城し、北上する島津氏と対峙したが、隈部氏は篭城してこれを凌いで島津氏と和睦し所領を安堵された。
天正15年(1587年)羽柴秀吉の九州平定後、親永は佐々成政の配下に組み込まれるが、同年親永が菊池城に拠って成政に反抗したため、反乱が鎮圧された後に菊池城は破却された。
菊地城跡
編集遺構
編集菊池城は菊池市の北東山麓に位置し、周囲に空堀跡や土塁跡が残る。
菊池公園
編集菊池城跡一帯は菊池公園として整備されており、桜やツツジの名所として知られる[2]。
明治維新後、勤王菊池氏を顕彰して本丸跡に菊池神社が建てられた。戦前は軍神を祭る神社としても知られた。菊池神社内の歴史館には菊池氏所縁の宝物や古文書が展示されている[2]。境内には菊池武時騎馬像、第二次世界大戦で特殊潜航艇艇長としてシドニー湾に突入して戦死した松尾敬宇中佐の胸像がある。
また、菊池神社の近くには菊池武光騎馬像が建つ菊池市民広場がある[2]。このほか菊池観光物産館がある[2]。
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菊池城空堀跡
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支城の一つ亀尾城
脚注
編集関連項目
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