荒川高三郎
荒川 高三郎(あらかわ たかさぶろう、1866年(慶応2年1月[1][2])- 1935年(昭和10年)12月23日[1])は、明治から昭和初期の農業経営者、政治家。衆議院議員、群馬県邑楽郡三野谷村長。旧姓・島田。足尾鉱毒問題における田中正造の同労者[3]。
経歴
編集下野国足利郡村上村(栃木県足利郡村上村[3][4]、吾妻村[2]を経て現佐野市村上町)で島田次郎次の三男として生れ[3]、群馬県邑楽郡三野谷村上三林(現館林市上三林)の豪農・荒川家の養子となる[3][4]。漢学、国学を修めた[1][2][3]。
1889年(明治22年)三野谷村収入役に就任[3]。以後、三野谷村会議員、学務委員などを務めた[1][2][3][4]。1896年(明治29年)群馬県会議員に選出され、1907年(明治40年)9月まで在任[1][2][3][4]。1897年(明治30年)三野谷村長に就任[1][2][3][4]。この頃、足尾鉱毒問題に取り組んだ[3][4]。
1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(群馬県第2区)で当選し[3][4][5]、衆議院議員に1期在任した[1][2]。
1911年(明治44年)邑楽郡会議員に就任し、同議長も務めた[1][2][3][4]。その他、新田養蚕組合長などにも在任した[6]。
国政選挙歴
編集- 第5回衆議院議員総選挙(群馬県第2区、1898年3月、進歩党)当選[5]
- 第6回衆議院議員総選挙(群馬県第2区、1898年8月、憲政本党)次点落選[5]
- 第7回衆議院議員総選挙(群馬県郡部、1902年8月、憲政本党)落選[7]
脚注
編集参考文献
編集- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『関東地方養蚕組合名鑑』日本産業新報社、1925年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『群馬新百科事典』上毛新聞社、2008年。