荒尾成房
日本の戦国時代~江戸時代前期の武将。織田禅正忠家(信長)・池田家の家臣。尾張木田城主荒尾善次次男で、三河牛久保城代を経て、播磨龍野城代(1万石)を勤めた
荒尾 成房(あらお なりふさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。池田氏の家臣。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 弘治2年(1556年) |
死没 | 寛永7年10月17日(1630年11月21日) |
別名 | 小作、平左衛門(通称) |
官位 | 遠江守、但馬守 |
主君 | 池田恒興→輝政 |
氏族 | 荒尾氏 |
父母 | 父:荒尾善次 |
兄弟 |
善久、善応院(池田恒興正室)、成房、 隆重 |
妻 |
正室:水野清忠娘 継室:織田信直娘 |
子 |
成利、嵩就、和田三正、久成、成政、 津田元匡室 |
生涯
編集弘治2年(1556年)、織田氏の家臣・荒尾善次の次男として誕生。元亀3年(1572年)、兄・善久が三方ヶ原の戦いで戦死したため、その家督を相続した。
天正3年(1575年)、長篠の戦いに出陣する。後に姉・善応院が嫁いだ池田恒興に仕え、若森城と3000貫の知行を賜る。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで恒興が戦死した後は、その跡を継いだ輝政に仕えた。天正18年(1590年)、輝政が三河吉田城主となると、牛久保城代となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、輝政が播磨姫路52万石の領主となると、龍野城代となり1万石の知行を賜る。寛永2年(1625年)、隠居して嫡男・成利に家督を譲り、隠居料として3000石を賜る。
寛永7年(1630年)、死去。成利は藩主池田氏の外戚として米子城代、鳥取藩家老を務めた。
次男・嵩就は叔父隆重の養子となり、子孫は倉吉領主、鳥取藩家老を務めた。三男・三正は和田家を相続した。四男・久成は江戸幕府に仕え旗本となった。久成の四男は水戸藩家老である藤井徳昭。