若松只一
若松 只一(わかまつ ただかず、1893年(明治26年)3月8日[1][2] - 1959年(昭和34年)11月19日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。終戦時の陸軍次官。
若松 只一 | |
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若松只一 | |
生誕 |
1893年3月8日 日本 福島県 |
死没 | 1959年11月19日(66歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1914 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
経歴
編集本籍愛知県[1][2][3]。陸軍工兵中尉・若松八弥の長男として福島県で生まれる[1]。名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業[1][2][3]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる[1]。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業した[1][2][3]。
歩兵第33連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部員などを経て、1930年(昭和5年)8月から1932年(昭和7年)10月までドイツに駐在した[1]。1932年10月、歩兵第33連隊大隊長となり、参謀本部員、欧州出張、陸軍省軍務局課員(軍務課)、参謀本部付などを歴任し、1937年(昭和12年)6月、オーストリア大使館兼ハンガリー公使館付武官となり、1938年(昭和14年)3月、「ドイツによるオーストリア併合」(「アンシュルス」)以降、ハンガリー公使館付武官を経て帰国[1][3]。1939年(昭和14年)8月、陸軍少将に進級し留守第3師団司令部付となる[1][2][3]。
1939年10月、第38歩兵団長に就任し日中戦争に出征[1][2][3]。広東付近での諸作戦に参加した[2]。1940年(昭和15年)2月、第22軍参謀長に転じた[1][2][3]。同年11月、第22軍が廃止され参謀本部付となる[1][2][3]。太平洋戦争を参謀本部総務部長として迎え、1942年(昭和17年)12月、陸軍中将に進級した[1][2][3]。 1942年12月、参謀本部第3部長となり、翌年10月、第46師団長に就任[1][2][3]。1944年(昭和19年)11月、南方軍総参謀副長に転じた[1][2][3]。1945年(昭和20年)4月、本土決戦に備える第2総軍参謀長に就任[1][2][3]。同年7月から10月まで陸軍次官を務め終戦を迎えた[1][3]。同年11月[注 2]、予備役に編入となった[1]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。
1948年(昭和23年)7月、南方から捕虜を輸送した際の虐待(いわゆる地獄船)に関与した容疑で逮捕、B級戦犯として裁判にかけられた[5]後、懲役刑の判決を受けて服役。
伝記
編集栄典
編集- 勲章
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[6]