舟塚山古墳
舟塚山古墳(ふなつかやまこふん)は、茨城県石岡市北根本にある古墳。形状は前方後円墳。舟塚山古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている。
舟塚山古墳 | |
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墳丘全景(右手前に前方部、左奥に後円部) | |
所属 | 舟塚山古墳群 |
所在地 | 茨城県石岡市北根本 |
位置 | 北緯36度10分3.83秒 東経140度17分22.66秒 / 北緯36.1677306度 東経140.2896278度座標: 北緯36度10分3.83秒 東経140度17分22.66秒 / 北緯36.1677306度 東経140.2896278度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 |
墳丘長186m 高さ11m(後円部) |
埋葬施設 | 不明 |
出土品 | 円筒埴輪 |
築造時期 | 5世紀後半 |
史跡 | 国の史跡「舟塚山古墳」 |
特記事項 | 関東地方第2位/茨城県第1位の規模 |
地図 |
概要
編集茨城県中部、恋瀬川流域の台地縁辺部に築造された大型前方後円墳である。北東約300メートルには府中愛宕山古墳があり、霞ヶ浦との位置関係から舟塚山古墳は「入舟(入船)」、愛宕山古墳は「出舟(出船)」と通称される[1]。舟塚山古墳については1963年(昭和38年)に測量調査が、1972年(昭和47年)に周溝確認の発掘調査が実施されている[2]。
墳形は前方後円形で、前方部を西方に向ける。墳丘は3段築成で[3]、神社の社殿造営や採土・墓地造営により若干の改変を受けている[2]。墳丘長は約186メートルを測るが、これは茨城県では最大規模、関東地方でも太田天神山古墳(群馬県太田市、210メートル)に次ぐ第2位の規模になる[注 1]。墳丘外表では円筒埴輪列が認められているが、形象埴輪は未確認で[1]、葺石の有無も明らかでない[4]。墳丘周囲には盾形の周濠が巡らされており[4]、周濠を含めた古墳全長は約260メートルにもおよぶ[2]。また周辺では陪塚と見られる小古墳数基の分布も見られる[1]。埋葬施設は明らかでないが、地元では多数の大刀が出土したとする伝承がある[1][2]。
この舟塚山古墳は、墳形・出土埴輪から古墳時代中期の5世紀後半頃の築造と推定される[4][3]。被葬者は明らかでないが、その規模からは新治郡・行方郡・稲敷郡域を治めた大豪族の墓と見られ[1][2]、特に茨城国造の首長墓と推測する説もある[5]。
古墳域は1921年(大正10年)に国の史跡に指定されている[6]。なお石岡市域は、後世に常陸国府・常陸国分寺・常陸国分尼寺が営まれるなど、律令制下に入っても常陸国の中心地であったことが知られる[2]。
遺跡歴
編集墳丘
編集墳丘の規模は次の通り[3]。
- 古墳総長:約260メートル - 周濠を含めた古墳全長[2]。
- 墳丘長:186メートル
- 後円部
- 直径:90メートル
- 高さ:11メートル
- 前方部
- 幅:100メートル
- 高さ:10メートル
墳形の築造企画は、大仙陵古墳(大阪府堺市、伝仁徳天皇陵)やウワナベ古墳(奈良県奈良市)との類似が指摘される[1][2][3]。
墳丘周囲では周濠が認められているが、古墳自体が台地の縁辺部に位置するため、周濠は墳丘北側(台地側)のみであって南側(崖側)には設けられなかったと推測される[2]。現状の周濠の規模は、後円部東側で幅44メートル、前方部西側で幅40メートル、くびれ部北側で最大幅63メートルを測る[2]。
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後円部墳頂
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前方部から後円部を望む
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後円部から前方部を望む
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後円部墳丘
陪塚
編集舟塚山古墳の周辺では、陪塚(陪冢)と見られる小古墳数基の分布が知られる。1972年(昭和47年)の調査の際には、そのうちの小円墳(舟塚山17号墳)で木棺が発見され、その中から短甲・盾・直刀が出土している(石岡市指定有形文化財)[2][1]。
なお、そのほかに舟塚山9号墳から出土した箱式石棺が、石岡市民俗資料館前に移動のうえ保存されている。
文化財
編集国の史跡
編集関連文化財
編集- 舟塚山古墳群17号墳出土短甲・盾・直刀(考古資料) - 石岡市指定有形文化財(考古資料)。1978年(昭和53年)8月23日指定[8]。
現地情報
編集所在地
交通アクセス
関連施設
- 常陸風土記の丘(石岡市染谷) - 舟塚山古墳の出土埴輪等を展示。
周辺
- 舟塚山古墳群
- 府中愛宕山古墳 - 茨城県指定史跡。
香取海周辺の古墳地図
編集脚注
編集注釈
出典