興宗 (遼)

契丹の第7代皇帝

興宗(こうそう)は、契丹の第7代皇帝只骨

興宗 耶律只骨
契丹
第7代皇帝
王朝 契丹
在位期間 景福元年6月3日 - 重熙24年8月4日
1031年6月25日 - 1055年8月28日
都城 上京臨潢府
姓・諱 耶律只骨
劉宗真(漢名)
夷不菫
諡号 神聖孝章皇帝
廟号 興宗
生年 開泰5年2月23日[1]
1016年4月3日
没年 重熙24年8月4日
1055年8月28日
聖宗
欽哀蕭皇后
后妃 仁懿蕭皇后
陵墓 永興陵
年号 景福 : 1031年
重熙 : 1032年 - 1055年

生涯

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第6代皇帝聖宗の長男として生まれる。3歳で梁王に冊封、太平11年(1031年)、聖宗の崩御により皇位を継承した。幼年であったため、当初は生母の欽哀太后が摂政として実権を握り、朝政を行っていた。

成人後は欽哀太后を幽閉して実権を取り戻し、親政を開始した。この頃の契丹は国力衰退の兆しが見え始めていたが、興宗は軍事力を増強して北宋への圧力を強め、歳幣を増加させることに成功した。また、新興勢力の西夏に対しても軍を送って屈服させ、朝貢させることに成功するなどして契丹の再建を成し遂げた。文化面・内政面でも繁栄を遂げた契丹は、全盛期を迎えるに至った。

重熙24年(1055年)に40歳で崩御し、太子の査剌が皇位を継承した。

宗室

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后妃

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  • 耶律査剌(洪基、字は涅隣、道宗
  • 耶律宝信奴(早世)
  • 耶律和魯斡(字は阿輦、宋魏王、皇太叔、宣宗の父)
  • 耶律阿璉(字は訛里本、秦越王、英宗の父)
  • 耶律跋芹(晋国長公主、蕭孝穆の子の蕭撒八の妻、後に蕭孝忠の子の蕭阿速の妻、後に蕭窩匿の妻)
  • 耶律斡里太(鄭国大長公主、蕭余里也の妻)

脚注

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  1. ^ 遼史』聖宗本紀に、「開泰五年二月戊戌、皇子宗真生」との記述がある。ユリウス暦に換算すれば1016年4月3日となる。