絳州(こうしゅう)は、中国にかつて存在した南北朝時代から民国初年にかけて、現在の山西省運城市一帯に設置された。

魏晋南北朝時代

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443年太平真君4年)、北魏により設置された東雍州を前身とする。太和年間に東雍州はひとたび廃止された。

535年天平2年)、東魏により東雍州が再び置かれた。東雍州は邵郡・高涼郡・正平郡の3郡8県を管轄した[1]

560年武成2年)、北周により東雍州は絳州と改称された。

隋代

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初には、絳州は3郡6県を管轄した。583年開皇3年)、が郡制を廃すると、絳州の属郡は廃止された。605年大業元年)に邵州が廃止されると、その管轄県が統合された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、絳州は絳郡と改称され、下部に8県を管轄した[2]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。

隋代の行政区画変遷
区分 開皇元年 区分 大業3年
絳州 邵州 晋州 絳郡
正平郡 絳郡 高涼郡 邵郡 平河郡 北絳郡 正平県 聞喜県 曲沃県
絳県 稷山県 垣県
太平県 翼城県
臨汾県
聞喜県
曲沃県
絳県
小郷県
高涼県 亳城県
清廉県
蒲原県
太平県 北絳県

唐代

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618年武徳元年)、により絳郡は絳州と改められた。742年天宝元年)、絳州は絳郡と改称された。758年乾元元年)、絳郡は絳州の称にもどされた。絳州は河東道に属し、曲沃・絳・稷山・垣・襄陵の5県を管轄した[3]

宋代

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北宋のとき、絳州は河東路に属し、正平・曲沃・稷山・翼城・太平・絳・垣曲の7県を管轄した[4]

のとき、絳州は河東南路に属し、正平・曲沃・稷山・翼城・太平・絳・垣曲・平水の8県と沢掌・柴村・九王・皋落・絵交の5鎮と行台関を管轄した[5]

元代

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のとき、絳州は晋寧路に属し、正平・曲沃・稷山・翼城・太平・絳・垣曲の7県を管轄した[6]

明代以降

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のとき、絳州は平陽府に属し、稷山・絳・垣曲の3県を管轄した[7]

1724年雍正2年)、により絳州は直隷州に昇格した。絳州直隷州は山西省に属し、聞喜・稷山・絳・垣曲・河津の5県を管轄した[8]

1912年中華民国により絳州直隷州は廃止された。

脚注

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  1. ^ 魏書』地形志二上
  2. ^ 隋書』地理志中
  3. ^ 旧唐書』地理志二
  4. ^ 宋史』地理志二
  5. ^ 金史』地理志下
  6. ^ 元史』地理志一
  7. ^ 明史』地理志二
  8. ^ 清史稿』地理志七